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オーク島の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2014年 7月 6日(日)08時26分12秒
返信・引用
  オーク・アイランドの埋蔵金
http://www.voynich.com/oak/index.html

宝の坑
http://rx178ryo.kanashibari.jp/story/story37.html
 
 

常神の隠し財宝・朝倉家埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2014年 7月 5日(土)20時56分54秒
返信・引用
  http://www.kougabu.com/gallery/itou/ascetic/treasure.html
TREASURE HUNTING

 福井県三方郡三方町常神、常神半島の先端にある小さな集落ですが、ここには、「隠し財宝」の伝説が残っています。この地には、「朝日さす入り日輝くその浦に黄金千枚朱千枚」という歌が残っており、江戸時代やそれ以前から何度も金が探されてきたと言われています。常神の歴史を記した西田村誌によると、「朝日さす…」の歌は常神社の境内を指しているようです。
 常神社は神功皇后、若狭彦、若狭姫(山幸彦、トヨタマヒメ)、ウガヤフキアズエノ尊、天照大神等を祭る『延喜式神名帳』に載っている古い神社です。いつ創建されたかは不明ですが、約百年前、大不作に陥った西田村を救おうと、村中総出で大掛かりな黄金発掘を行ったといい、境内には当時の発掘後が残っています。その財宝の由来は定かではありません。西暦200年ごろ、神功皇后が常神半島の先端から少し離れた御神島(おんがみじま)に立ち寄り、航海の無事を祈るたる守護神を祭ったという伝説や、常神社の縁起には「舒明天皇2年(629年)2月、御神島に降臨し給い、常にここに居まして異賊の凶害を救い給う」ともあり、神や朝廷に関わる記述も多く残っていることも関係するのでしょうか。常神社が御神島にあった時代もあることから、財宝は御神島に眠っているのかも(?)知れません。

 そのほか、福井県内の有力な埋蔵伝説では、「朝倉家埋蔵金」があります。5代百年間越前を支配した戦国武将 朝倉家。歴史の教科書でも家訓の「朝倉十七ヶ条」は有名です。その朝倉家の財力といえば、石高約68万石ともいわれ、その他にも鳴鹿の十郷用水の農業用水権を握り農民から取りたてた用水使用料や、東大寺、興福寺荘園の米を足羽川から三国港を経由して敦賀港へ運ぶ船舶運行料、さらには「馬借」という陸運業者からも通行料などの収入があったらしい。一向一揆などに対する戦費に費やしたとしても、財産はかなりあったようで、末期の朝倉義景時代には、城下町の一乗谷に京都の文化人が引き寄せられ、いわゆる朝倉文化が花開いていました。明智光秀が家臣になったり、将軍足利義昭が招かれて寄宿したのも、財力、戦力のおかげであったと言われています。ちなみに義景の「義」は将軍から頂いたもので、後継ぎに自分の名の頭の字をつけるのが主流(足利将軍家の系図を見てもすべて「義」がついています。)なのですが、足利将軍家の名「義」を頂いたことも当時の朝倉家の力をうかがい知ることができます。
 その朝倉義景が、1570年に近江の浅井長政と連合して織田信長を追い払ったところまではよかったのですが、1573年8月14日、敦賀・刀禰坂の戦いで信長軍に大敗し、その後1週間で滅亡してしまいました。あっけなく滅亡してしまい、財産を使いきる暇もなかったというのが、埋蔵金伝説のもとなのです。
 一攫千金を狙って山師たちが江戸時代から何十人と発掘を試みたようですが、いずれも失敗に終わっているようです。
 城戸ノ内地区には「二の丸の絶壁から、夜、黄金色に光るものが出た。」という言い伝えが古くから残っているそうです。昭和30年12月には、諏訪館西の一乗谷川の橋梁工事中、川底から金の延べ板一枚を作業員が発見(現物は、作業員が持ち帰り不明)、昭和34年10月には、災害復旧工事中の作業員が古銭の詰まった木箱を発見(地元住民が所有)したらしい。 歴史上では、信長軍の先ぽうとして一番のりをした粟屋越中守勝久が掘り出したとも言われています。粟屋勝久は、福井県三方郡美浜町佐柿の国吉城主で、一番のりした特権として、だれもいない一乗谷城で戦利品を分捕り、朝倉家の財宝を運び出し自分の城中に隠した形跡があるようです。というのは、後に美浜町青蓮寺に朝倉家宝の「観音画像」等を寄贈していますし、それに、国吉城には埋蔵金伝説を物語る民謡が残されているからです。
「朝日さす 夕日輝くそのもとに黄金千駄銀千駄」(ん!どこかでも聞いたような…)
このように、埋蔵金とは縁がないような小さな城跡に、埋蔵金を匂わす民謡が残されていることも、朝倉埋蔵金の信憑性を物語っているようです。
参考:「福井新聞」2003.5.5
   「福井の意外史」読売新聞福井支局 ほか
 

富山県小矢部市の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2014年 7月 4日(金)09時11分57秒
返信・引用
  元豪農の屋敷には、明治16年の大火より災難を逃れるため、屋敷のどこかに埋められたと言い伝えがあったようです。


http://homepage2.nifty.com/gomasan/takara/hatukutu-yurai.htm
土地の前所有者は加賀藩時代から続く豪農で、
埋蔵金の話は先祖代々伝えられていたという 、
小判発見の報に「何のために埋めたのか」 などメルヘンの街は・・・ホットニュースで 賑わう・・・

小判や金貨が入った壷は3月5日に発見、
小判12枚、一分銀440枚、二分金(大)48枚 など、
合計1295枚にも上る、(推定六千万円相当)壷は胴回りの直径31センチ、高さ40センチ。


http://tasuku11.exblog.jp/10090621
 

足りないような、それで良いような

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月27日(金)17時04分48秒
返信・引用
  何か足りないよな、それでいいような・・・
 

結城家黄金埋蔵金の伝説

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月26日(木)20時57分52秒
返信・引用
  http://homepage3.nifty.com/miyatastone/sub1/sub2/maizoukin1.htm
史跡めぐり
第2回 結城家黄金埋蔵金の伝説 (前編)
結城家始祖、結城七郎朝光は、藤原秀郷から8代の後胤小山政光の三男である。朝光は、平家追討や奥羽征伐で活躍し源家に忠勤を励んだので、恩賞として頼朝から、平泉で栄華を極めた藤原氏から奪った財宝のほとんどをもらったという。以来代々、関東の肥沃な穀倉地帯に根を張り栄えてきたので俗に、「結城百万石」とその内福をうたわれていた。
朝光から数えて18代、結城晴朝の時に秀吉の小田原城攻めが起り(1586年)、晴朝も直ちに軍を起こし、小田原に馳せ参じた。秀吉との対面の折り、たまたま晴朝に世子がいないことを知った秀吉は、自分の養子秀康を晴朝に与えると言いだした。ところが古武士気質の晴朝は、権謀術策に富む家康とは性格があわず大嫌いであった。しかし、ときの権力者秀吉の配慮を断ることも出来ず、心ならずも承知したのであったという。
やがて、天下の実権が家康に移ると、徳川家の基礎固めの為に家康は、強力な外様大名や、少しでも怪しい素振りのある者は片端から難癖をつけて取り潰したり、国替えをしてその力を弱めることに熱中していた。天下にその繁栄と内福を噂されている結城家の晴朝は、「つぎはわしの番だ」と予感して「この宝、むざむざ徳川家に渡してなるものか」と、朝光以来の財宝を、腹心の家来、膳所主水(ぜぜもんど)に命じて地中深く埋めてしまったという。
さて、はなしのつづきは後編で。


http://homepage3.nifty.com/miyatastone/sub1/sub2/maizoukin2.htm
史跡めぐり
第3回 結城家黄金埋蔵金の伝説 (後編)

さて、この結城家の財宝を掘ろうと企てた人達は少なくなかった。主なものだけでも次の通りである。

・ 徳川家康が城址の古井戸という古井戸を掘り、失敗に終る。「結城家埋蔵金をみだりに発掘すべからず云々」の布告を出す。
・ 八代将軍吉宗が大岡越前守に命じて、結城から8キロ外れた、下野国吉田村的場を掘る。土砂が崩れて11人の死者が出たという。
・ 幕末の老中阿部正弘が、結城城址の西南小塙を掘る。
・ 大正6年結城藩主の子、貴族院議員 水野直(ただし)子爵が、当時日本橋蠣殻町の米相場師で大もうけした、熊倉良助氏を資金源に約1年、結城城の周辺を掘りまくった。前祝として当時結城町5000軒に、紅白の餅を一重ねずつ配ったという。見物人相手の屋台店まで出る賑わいであった。しかし、武具の破片が少々出たきりでめぼしい発見はなかったという。
 

宝探しはどうやればいいのか?

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月26日(木)20時42分36秒
返信・引用
  https://www.youtube.com/watch?v=UD4uRkdl2NE&list=PL_cSDotubJqW8ygiSTvgMFD9sUCYD7i1R&index=4

F.E.R.C Research Report - File No.030
宝探しはどうやればいいのか?
1999/01/24  報告 報告者:桐島 夏子

1857年、サンフランシスコとニューヨークを定期的に航行する金の運搬船だったセントラル・アメリカ号は、サウスカロライナ沖で巨大ハリケーンに遭遇、沈没してしまった。10億ドルともいわれる財宝が、海の藻屑と消えた。1987年になって、コロンバス・アメリカ・ディスカバリーという宝探しを専門に行う集団がこの船を発見、大量の金が見つかり、10億ドルの相当財宝を手に入れた。

また1963年、東京都中央区新川1丁目で総額6億円に相当する、天保二朱金78,389枚と天保小判1900枚が発見された。一説によると日本でまだ発見されていない埋蔵金は、なんと200兆円もあるという。

財宝ファイルには次のようなものがある。
1.茨城県結城市の結城晴朝の埋蔵金…結城家は戦国末期から安土桃山時代にかけて420年間、北総一帯を治めていた。北総は広大な穀倉地帯が広がる豊かな領土であり、奥州藤原氏が貯め込んだ黄金を戦いで勝ち取った。晴朝は徳川家康にその財宝を取られる事を恐れ、城のどこかに財宝を隠したと言い伝えられている。その財宝は、金の延べ棒と砂金750トン以上、約5千億円。1997年にトレジャーハンター達により、栃木県小山市の中久喜城の発掘が行われたが、財宝発見には至らず現在も調査中。

2.兵庫県川辺郡多田銀山の太閤秀吉の隠し黄金…豊臣秀吉は日本史に名を残した個人の中で、最も多くの黄金を手に入れた人物。多田銀山の坑道内に8兆円相当の莫大な量の黄金を埋蔵したといわれる。多田銀山は複雑に入り組んでいるうえ、地下水が多いため危険で現在立入禁止となっているところもある。

宝探しには、情報収集が大切である。まず、図書館や資料館で古文書や絵図を探し、その土地の歴史に詳しい人に話を聞く。埋蔵金のありかは、暗号で記されていることが多く、解読する必要があるという。山梨県南巨摩郡の徳川財宝3兆円伝説の場合、埋蔵金の運搬に関わった者たちが新潟県小千谷市で詠んだ次のような辞世の句が残っている。 "越える峰後ふりかえれば吉か凶、谷なき渡る四羽の子鳥"

弁護士の水津正臣氏によると、もし財宝を見つけたても、所有権取得の手続きをきちんとしなければ水の泡になるという。所有権取得の手続きは、財宝の発見場所によって異なる。地中から発見した場合、法律上は落とし物扱いとなる。財宝は警察が遺失物として保管し、所有者を探す。6ケ月経っても現れない場合は発見者の物になるが、全てという訳ではなく、掘り出した土地の持ち主と折半しなければならない。一方、海中で発見した場合は、水難救護法の適用を受け、届け先は市町村になる。財宝が剥き出しの場合は6ケ月間、沈没船の中の場合は1年間経っても所有者が現れない場合は、発見者の物になる。
 

島野浦のメキシコ女王の財宝

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月25日(水)10時49分48秒
返信・引用
  九州の旅ネット 九州の埋蔵金伝説

http://www.welcomekyushu.jp/unchiku/?mode=detailtebiki&id=68
島野浦のメキシコ女王の財宝の行方は?

 美々津から大分県佐賀関にかけての海岸線は景色がいいので、日豊海岸国定公園に指定されている。この海岸線には浦城、熊野江、島野浦、古江、市振、宮野浦という六つの入江があるので、俗に六ヵ浦海岸と呼ばれてきた。島野浦は人口千百人ほどの漁民の小島で、東岸には豪壮な洞門があり、北側の海底をのぞけばテーブルサンゴの間で無数の亜熱帯魚が泳いでいる。
 安政年間(一八五四~一八五九)この島に大きな木箱が流れつき、それをカツオ漁の者たちが発見して手オノでこじあけたところ、白骨と化した人間の頭骸骨があった。頭には金髪が残り、その上に赤や青の絢爛豪華な宝石をちりばめた黄金の冠が輝いていた。
 漁師たちはびっくり仰天。黒潮に乗って南の国からやって来たのであろうか。宝石だけを抜きとれば崇りがあるとおそれた漁民たちは小島の一隅に埋め、お互い口をつぐんだ。厖大な宝石はそのままである。のちにはこれを調査したある大学教授が、当時メキシコに内乱があり、女王が殺されて海に流された史実があると語ったので、以来メキシコの女王の死体ということになってしまったらしい。その後、地元警察や海軍が発掘につとめたがさっぱりみつからなかったという。
 さて、金髪の女性がかぶっていた宝冠は、いま島野浦のどのあたりに埋められているのであろうか。あるいは誰かが盗掘したのか。約百五十年間秘密のベールに包まれたままである。
 似た話は、近くの浦城にもある。ここはかつて水軍や海賊の基地で、逃げるとき各地で集めた厖大な財宝をどこかに埋めていったが、いまだに行方不明。海賊の埋蔵金の話にはなにか夢がありロマンがある。
 

水軍の財宝伝説

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月25日(水)10時43分57秒
返信・引用
  今治おもしろ百科 今治に水軍の財宝伝説があるの?
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/doinaka/iq/iq-h/i013.html

 水軍の埋蔵金に関する話もこの地域には数多く残っています。芸予諸島には何代にもわたって蓄えてきた水軍の財宝が戦国時代の後期を中心に様々な島に埋蔵されたといいます。財宝の種類は金、銀、金の延べ棒、砂金、金銀細工物、黄金の太刀、珠玉などです。

 財宝の隠し場所として最適なのは船の行き来が少ない場所で洞窟などがある無人島。満潮時には水面下になり、潮が引くと現れる洞窟などが隠し場所です。来島海峡の辺りは干満の差が二から三メートル。財宝を隠すのには良い場所かもしれません。

 お隣の大島吉海町の泊に埋蔵金の伝説が残っています。
 山を切り開いたとき、壷がでてきました。その中には金の小粒と文章が入っていたといいます。文章には「名剣、幟幡、巻物の三宝はこの島より七里南の在家にあり、金子一万五千両は壱津の下、土中にあり」と書かれていたそうです。同じ内容の文章がもう一通出てきているそう。まだ、埋蔵金は発見されていません。
 伯方島の木浦の大深山に「入らずの山」「売らずの山」といい伝えられている場所があるそうです。能島城が攻められたとき、武吉配下の侍が財宝を隠したといわれています。
 「朝日さす夕日輝くところ・・・」という言葉のある和歌が残されているそうですが、それがどの家か今では分からなくなっているそうです。

 弓削町にも埋蔵金伝説があります。ある家に「出没不常処・坤離之間」という文字が書かれた守札が残っていました。この意味は「出没常ならざる処、西南の場所」となります。弓削の南海岸に浮かぶ「みつうみ島」という小さな無人島があったのです。慶長三年、弓削島の三人がその島を探したところ、干潮になると現れる洞穴があり、財宝が見つかりました。三人は財宝の一部を持ち出し、大阪へ向かいましたが、その道中、喧嘩をし、一人は死に、財宝は海に沈んでしまいました。あと一人も死んでしまい、残った一人は財宝の祟りであるとこの話を封印してしまったそうです。

 水軍の宝ではないかもしれませんが、今治には国分寺の埋蔵金の話が伝わっています。江戸時代のこと。七造という農民が山を開墾中に和同開珎二百枚や鏡、仏像などを掘り当てました。それを知った近くの人々が和同開珎を買い求めました。大金持ちになった七造さんは病気のお母さんに孝行をしたといいます。国分寺にはその一部といわれる和同開珎が保存されているそうです。

 あなたもこうした伝説を基に水軍の宝探しをしてみませんか。
 

思いこみは敵だ

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月25日(水)00時28分28秒
返信・引用
  100%の確証が有ると思っても実際は・・・
(ラストシーンを見ると本人はかなり本気だったのでは?)

【探偵!ナイトスクープ】60年越しの発掘!尼子氏の埋蔵金
https://www.youtube.com/watch?v=JqYMNtRHORk
60年越しの発掘!尼子氏の埋蔵金



以下、フィリピンは穴掘りに行くところでは無い事が分かる動画(笑)

山下財宝
https://www.youtube.com/watch?v=GjlSYPMYcR8

ハルマヘラ島に眠る旧日本軍秘匿300トンの金塊
https://www.youtube.com/watch?v=7s15tkSXFxw

フィリピンで金塊が見つかる!
https://www.youtube.com/watch?v=G32-lRTr5hY

怪奇心霊?ファイルフィリピン発!呪われた埋蔵金伝説01
https://www.youtube.com/watch?v=52rty0zoL0o

怪奇心霊?ファイルフィリピン発!呪われた埋蔵金伝説02
https://www.youtube.com/watch?v=f5OAldO5mW4

フィリピン南部で金探しの日本人誘拐:なぜなのか?
https://www.youtube.com/watch?v=isTwRW822d4
 

世界は一家 人類みな兄弟

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月24日(火)20時40分33秒
返信・引用
  【笹川良一】海底93mに眠るナヒモフの宝庫の扉を開く
https://www.youtube.com/watch?v=fEQ7Enn3qO4
昭和56年4月
82才の笹川良一青年、海底93mに眠るナヒモフの宝庫の扉を開く。対馬沖にて。


世界は一家 人類みな兄弟 笹川良一“昭和の怪物”笹川良一とは一体どんな人物であったのか。

http://blog.goo.ne.jp/sasakawaryouichi/e/aa3338c9e178a3e95d5f1dbae2dae3d4
ナヒモフ号の引き揚げに私財投入

笹川良一が心血を注いでつくりあげた競艇事業から生み出される資金は、今や世界規模の団体である日本財団を通じて、社会のために使われている。

その資金は全国の競艇ファンからいただいたものである。笹川は毎年末、日本財団、全国モーターボート競走会連合会の御用納めを終えると、東京近郊の競艇場を回る。

これはファンに対して一年間のお礼を言うためで、年が明けて正月には、新年の挨拶のためにまた競艇場に行くのであった。さぞかし秘書は大変であったことであろう。

ファンあっての競艇事業、競艇事業があって初めて日本財団が活動できる。そのことを一番よく知っていたから競艇現場に足を運んだのであった。そのため、公私の区別はきちんとしており、競艇のお金は一切手をつけなかった。

そんな笹川であったが、自らのお金は当然のことながら自由にそしてダイナミックに使った。その一例がナヒモフ号の財宝の引き揚げであった。

1980年秋、長崎県対馬沖に時価一兆円の財宝を積んで沈没したとされる帝政ロシア時代の巡洋艦「ナヒモフ号」の引き揚げに笹川は巨額の私財を投じた。

ナヒモフ号はロシア・バルチック艦隊の装甲巡洋艦で1853年からのクリミア戦争で活躍したナヒモフ提督から名を取った。日本海海戦では第2艦隊に属し、海戦初日の夜に沈没したのであった。

何故笹川が私財を投じてまでナヒモフ号にこだわったかというと、世界の視線を北方領土問題に集中させるためであった。

北方領土は、日本古来の領土であったが、1945年8月から9月にかけてソ連軍は北方領土に上陸し占領した。

現在に至るまで戦後約60年以上にわたりソ連およびそれを継承したロシアが実効支配を継続している。

笹川は、北方領土問題解決にはナヒモフ号が絶好のチャンスだと思った。本当に財宝が引き揚げられれば、ソ連は必ず自らの所有物だと主張し、返還要求してくるに違いない、と考えていた。

その場合にはナヒモフ号は日露戦争の戦利品とみなされており、かつて久原房の助(戦前の政治家であり財界人として有名)らが引き揚げ作業に手をつけたことがあったが、ソ連は何も言ってこなかったわけだから引き揚げた者が所有者である、という理屈である。

そしてナヒモフの財宝が引き揚げられた場合、ソ連にプレゼントし、食糧問題で国民が苦しんでいるので、その財宝を国民のために使ってもらおうと考えていたのであった。

その代わり、日本から取り上げたままになっている北方領土を返還させることが交換条件であった。

笹川にとってナヒモフの財宝には全く興味がなかった。しかし巨額の私財を投入した。それは北方領土返還に向けてソ連を話し合いの土俵に乗せるための材料、切り札に使えると信じていたのである。

笹川が多額の私財を投入したナヒモフ号から引き揚げられたものは財宝ではなかった。


http://blog.goo.ne.jp/sasakawaryouichi/e/3eccb6ae3d4274d2b1972805192c8e49?fm=entry_awc_sleep
笹川の金の使い方

昨日のブログに書いたように、ソ連に対して北方領土返還交渉の材料にするため、巨額の私財を投げ打ってナヒモフ号の財宝を引き揚げた結果、失敗に終わった笹川良一のロマンとナショナリズム、そして蓄財への無関心は我々の想像をはるかに超えているものである。

競艇事業のお金とは全く異なり、私財については無頓着であった。日本財団や競艇事業関係の公金の使用については、きわめて厳格であり徹底した節約を行った。

にもかかわらず、自分のお金の使い方については、非常におおらかであった。

競艇事業の草創期には赤字により経営難に陥った競艇場には惜しみなく私財により補填をした。また、かつてハンセン病患者救済のために世界のハンセン病関係団体から協力を得て、約3ヵ月間新宿でサーカスを開催したものの観客の入りが悪く、10億円もの損失が出た。

これに対して笹川は「10億円は私個人で穴埋めをする。損はしたが命がけの芸術を見た子どもたちは勇気百倍、いかなることでもやろうと思えばやれないことはない、と思い多少のことではへこたれない精神が身に付くだろう。まことに結構、有難い損である」と言い切ったのであった。

ナヒモフ号の引き揚げの件は、結果的にはだまされたカタチになった。しかし巨額の資産を失ってしまっても本人は「自分だけがだまされて、誰にも迷惑をかけないのだからいいじゃないか」と秘書に語っている。

笹川が死去したあとに残された遺産は、資産家といわれる割には少なかった。それだけでなく、この引き揚げの際につくられた巨額な債務が未完済で残されており、唯一遺産を引継いだ笹川陽平がその精算に追われることになってしまったのである。(詳細はこちらのブログを参照)

他人には迷惑をかけなかったが子孫には「美田」を残さなかったどころか債務を残してしまったのである。

世間では事実を一切知らないため、私財をまさか北方領土返還のための交渉材料に使うわけがない、日本財団の金を勝手に使っているに決まっている、という疑念が生まれることも仕方ないことである。

私を含めて一般人にはとても理解し難い行動、言動であったからである。

日本財団を“私物化”しているという批判は、実はこういうところからも生じていたのである。


http://blog.goo.ne.jp/sasakawaryouichi/e/33d2a1cf5a2e83456eda167767fbe156?fm=entry_awp_sleep
笹川良一の遺産
 

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