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埋蔵金の入っていた壺?

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月 8日(木)11時12分35秒
返信・引用
  日本共産党渋川市議団よしかず通信

上州赤城徳川埋蔵金の里から
http://blogs.yahoo.co.jp/dhqbq110/9622616.html
ここは上州上野の国拝志の庄赤城の郷、昔々のその昔からといっても今から約146年前、上州津久田原に江戸城からこっそり運びだされたお宝が埋められたといわれているところです。私がこどもの頃読んだ「ぼくら」や「少年画報」にも登場していました。徳川幕府のご用金が埋められているといわれていました。・・過去形の理由は、TBS系列のテレビ番組【ギミアブレイク】なる番組で、数年間にわたり取材されお正月の特別番組で放映されました。あのとき本当に間もなくお宝に巡り会えるのかという期待もあった人がいたと思います。大型建設機械を導入して大規模な発掘が行われましたが結果は何も出ませんでした。土を掘り始めるとあと一鍬あと一鍬と際限なく掘り進むことになります。
 私は、行政に住民の声を届ける立場で活動していると同時に、それ以前から取り組んでいるのが地元「拝志の庄、赤城の郷」の歴史を掘っています。文献や古老の話そして今でも現存している石造物などを基に歴史を掘り続けています。これは、大変時間がかかると同時に書物では皆無といっていいくらい残されておりません。少しづづではありますがつづってみたいと思います。それは、今から46年前のある日から始まります。当時合併して間もない赤城村に一本の幹線道路を造る計画が持ち上がり、群馬県の事業で道路の建設が進められていました。工事現場で山肌を屈作中に壺が発見されその中に小判が数十枚入っていたというニュースがありました。(当時の壺は私の家に保管してあります。)子ども心にもしかして埋蔵金ではと心躍らして発掘現場に足を運びました。・・・この話になると、何時間いや何日あっても終わりません。今日はこの辺にしておきます。テレビではやらない、トレジャーハンターも必見の地元の人しか知らない話がたくさんあります。

上州埋蔵金の里から パートⅡ
http://blogs.yahoo.co.jp/dhqbq110/39511871.html
 パートⅠを書いたのいつ頃だったかな?忘れるくらい時間が経過しています。埋蔵金といううさんくさい話が議員のブログに書いてあるなんて。と思う人もいると思います。が、いるのですここに。
 パートⅠの一部引用・・今から46年前のある日から始まります。当時合併して間もない赤城村に一本の幹線道路を造る計画が持ち上がり、群馬県の事業で道路の建設が進められていました。工事現場で山肌を屈作中に壺が発見されその中に小判が数十枚入っていたというニュースがありました。(当時の壺は私の家に保管してあります。)子ども心にもしかして埋蔵金ではと心躍らして発掘現場に足を運びました。
群馬県勢多郡赤城村津久田(現在は渋川市赤城町)の卒立で行われていた県道新設工事現場まで家から約一キロメートルのところでした。当時、私は小学一年生、隣に住んでいるまーちゃん、たーちゃんと一緒に見に行きました。ここ赤城地域は太古の昔榛名山の噴火により軽石層が多い場所で二メートルくらいあります。壺が掘り出されたのは、山の中腹で軽石層と関東ローム層(赤土)の境目あたりでした。小判についてはどうなったのかわかりません。遺失物で届けられたのか工事人夫が山分けしたのかはわかりません。ただ、子供心に学校で小判が出た話でもちきりだったことははっきり覚えています。そして、小判が入っていたといわれる壺を、当時工事現場で働いていた同級生の父親が壺だけもらってきて長く保管していたものをもらい受けて保管しているのです。壺が出たあたりの道は開墾地へと続いていました。いまでこそ自動車道が整備されていますが、私が子供の頃は、七坂七曲がりと言われている険しい道を上らないと開墾地には行けませんでした。昔の人は、この七坂七曲がりを松明の長い列が通ったとか。油樽みたいなものを担いでいったというような話が残っていますが、今になっては知る人もいません。この七坂七曲がりの道を登りあげたその先には、埋蔵金を掘り続けて三代目の水野さんの家があります。平成の始めにTBS系のテレビ放映で「ぎみあぶれいく」という番組がありその中で、水野さんが見せていましたが、和紙の真ん中に絵が描かれていて謎めいた歌が書かれていました。たしか「ほりかねるいどみずのなしこれよりはうもれよなはたからに?」だったと思います。トレジャーハンターと称する人たちがいろいろな推理をたてて埋蔵金の謎解きに挑戦しています。「かごめかごめ」の歌にヒントがあると言っていた人もいます。実際には何を根拠にしているものなのか推理の域を出ないので何ともいえませんが、水野さんが大事にもっている和紙に書かれているものは、なにか真実に一つ近づいているのかな?と考えてみたりしています。今日はこのへんで、またいつかこの続きをつづってみたいと思います。 興味のある方、コメントください。
 
 

狩野埋蔵金?

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月 8日(木)10時54分56秒
返信・引用
  http://www.ipdl.inpit.go.jp/Tokujitu/tjsogodb.ipdl?N0000=101
文献種別へ「a」 、文献番号へ「2001-042765」を入力して、文献番号商会。

特開2001-042765
(57)【要約】 (修正有)
【課題】狩野埋蔵金について、経済効率のよい黄金の採取を実現する。
【解決手段】黄金の埋蔵場所を既に公開されている関係資料から、埋蔵金は7ケ所の古井戸に在るとの解読、古井戸の詳細な位置は公開関係資料の方位と歩測を仮想7点と実7点とに判別して実7点に在るとの解読、公開関係資料の地図の縮尺は仮想7点のうち曲線から浮上した1点と中心との距離を429歩とすることにし、公開関係資料の地図の近似方位は(子)が北であると解読し、埋蔵場所は埋蔵当時の地図と縮尺の解かった公開関係資料の地図を津久田原とその隣接地域一帯とを照らし合せて狩野の地に在る等として決定する方法である。また、黄金の埋蔵場所は古井戸であることから、埋没した古井戸の位置は、井戸の平面形状を井戸の埋め戻し土とその周りの地山部分との比較で識別し、地上から浅い部分である上部の掘削によって井戸の位置を知る。

【特許請求の範囲】
【請求項1】 狩野埋蔵金、すなわち、従来一般に赤城山徳川埋蔵金と言われている黄金の埋蔵場所を既に公開されている関係資料を解読、すなわち、埋蔵金は7ケ所の古井戸に在るとの解読、また、古井戸の詳細な位置は公開関係資料の方位と歩測を仮想7点と実7点とに判別して実7点に在るとの解読、また、公開関係資料の地図(図3)の縮尺は仮想7点のうち曲線から浮上した1点と中心との距離を429歩とすることによるとの解読、また、公開関係資料の地図(図3)の近似方位は(子)が北であるとの解読、また、公開関係資料の地図、(図3)の場所は埋蔵当時の地図(現在一般に入手可能な当時の状況に近い実測地図は、大日本帝国陸地測量部による明治40年測量のものである)と縮尺の解かった公開関係資料の地図とを津久田原とその隣接地域一帯とを照らし合せて地形の一致する場所を選定することによる解読(地形の一致する場所は狩野の地に在る)、等をすることによって決定する方法。
【請求項2】 公開関係資料の縮尺を決定する歩測において旧日本陸軍の150センチ複渉を採用することを特徴とする特許請求の範囲第1項記載の方法。
【請求項3】 公開関係資料の縮尺を決定する歩測において江戸末期の測量技術者の一般に利用していた歩幅を採用することを特徴とする特許請求の範囲第1項記載の方法。
【請求項4】 公開関係資料の縮尺を決定する歩測において江戸末期の政治、または、警察、または、軍事関係者の一般に利用していた歩幅を採用することを特徴とする特許請求の範囲第1項記載の方法。
【請求項5】 狩野埋蔵金、すなわち、従来一般に赤城山徳川埋蔵金と言われている黄金の埋蔵場所は古井戸であることから、埋没した古井戸の位置を探すにあたって、井戸の平面形状を井戸の埋め戻し土とその周りの地山部分との比較で識別し、地上から浅い部分である上部の掘削によって井戸の位置を知る方法。
【請求項6】 特許請求の範囲第1項、第2項、第3項、第4項、及び、第5項記載の方法によって、狩野埋蔵金、すなわち、従来一般に赤城山徳川埋蔵金といわれている黄金の埋蔵場所を発見したこと。
【請求項7】 特許請求の範囲第6項記載の発見にもとづいて、狩野埋蔵金、を発掘すること。
 

水戸徳川家に有ったとされる文書

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月 6日(火)22時18分52秒
返信・引用
  真偽の程は・・・


将軍秘 認証状

この度豊後守殿申出により、上州小川田之原に御廻送相成可候之左記御宝物茲に拙者儀に於て徳川亀之助に命じ越前堀寄伝馬船清快丸外、五十五艘を以て右正に積出候事ここに実証候也。
右財宝は本十二日午の刻を以て全品無事、右海事指南若月三郎ヱ門に対し相引渡し申候条、正に創意無之実証候也。

右目録品記
将軍家江戸城御宝物、大判、小判、箱詰総積拾六万貫及び黄金之伸棒、弐万六千弐百拾六貫匁也、此れ皆、密封間違ひ有間敷候事、正に実証候也。
仙台藩伊達家、信太夫殿寄相受継申候之御同家御宝物、大判、小判、計五拾四万両箱詰及び別箱四万両也、此の外に蔵品、菰包、大小合し、拾六箇、右荷造折角厳重成事正に実証候也。
福井藩松平家、御宝物、但し仙台様に御預け之上御向廻、御下命之御品也、太閤殿下寄拝領したる黄金之灯籠壱対、正宗之銘刀壱振、古金銀、箱詰計、拾六万両也、一切此れ皆厳重検査之上、蓋し、右確実成る事、正に実証候也。

以上右送り届之件秘朱認証状依如件
辰三月十二日 右 小倉豊前守直定
右証了 若月三郎ヱ門兼隆
勝安房守殿
 

愛鷹山の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2014年12月14日(日)16時51分19秒
返信・引用
  ①今川氏の埋蔵金
http://www.geocities.jp/mutyuu_sanpo/ikai/maizou.html

 埋蔵金 なんと夢を持った響きの言葉でしょう。

 実は、私の祖父は埋蔵金を探すのが仕事でした。正確には、地下に眠る鉱脈を探す仕事、鉱山師だったのです。祖父の古い写真には、白馬雪渓の二合雪渓や三合雪渓の様子や、山形月山、伊豆の土肥の鉱山などが写っています。白馬銅鉱山三号坑道は、今の三合尾根の近くにあったようです。
 全国の山々を探索したのに、富士山の周辺には足跡がありません。鉱脈のない、若い山には興味が無かったようです。

 話しがそれましたが、埋蔵金は私の近くにも、眠ってます。場所は 愛鷹連峰の天狗の畑です。麓の須津の青年団が、戦前に二度にわたって掘っています。
 桶狭間の戦いに敗れた、駿府の今川氏の埋蔵金だというのです。二度とも、もっともな理由(?)で埋蔵金は発見されませんでしたが、天狗の畑 という名前や、険しい山中の環境などから 埋蔵金 がある雰囲気は充分なのですが・・・。

 私は、この場所が大好きです。二度も掘り繰り返した為、険しい山中にもかかわらず六坪程が平坦で、昼寝をするのには最適な場所なのです。地元の人以外、めったに人に会いません。
 場所の詳細は、呼子岳と鋸岳の間としか申し上げられません。発見されたらつまらないからです。

 埋蔵金は、眠っていてこそ 埋蔵金なのです。


②武田埋蔵金

鯛屋旅館に伝わる“天狗畑の埋蔵金”伝説

http://kanscamera.sakura.ne.jp/hp6/html/t31.html
峠から一番近いピークに出る。ここは「天狗の畑」と呼ばれている。武田氏の埋蔵金が眠ると言う伝説があり、ある旅館の主人が掘ろうとしたが、突然の悪天候などで妨げられ、天狗の祟りと呼ばれたのはそれほど昔の話ではない。
 

鐘撞山の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2014年12月13日(土)23時21分8秒
返信・引用
  鐘撞山奥の院の由来

鐘撞山の眼下は長者舎といい、武田勝頼の滅亡后、その家臣の小山田信茂の城代であった小山田八左衛門一族は小田原(北条氏)をめざし落ちのびようと神の川流域長者舎まできました。
折花姫を守る為に鐘撞山は鐘を置き急をつげるときの場所としました。
この山一帯には金のカメ7個が埋められたという古文書もあります。

神の川ヒュッテ管理委員会
 

羽金山の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2014年12月 9日(火)00時46分29秒
返信・引用
  羽金山の埋蔵金
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=2896

羽金山は標高900mほどで、7合目あたりは薙刀石、畳石、戸棚石、燕石などと名付けられた巨石群がある。
 寛永14年(1637)島原の乱が勃発した。筑前の福岡藩52万石も、幕府の要請を受けて、島原鎮圧のために出動をした。その途中、長野峠付近で軍用金50万両のうち10万両が消え去ったという。その後、10万両を求めて多くの人たちが探したが、どこにも見つからずいつとはなしに忘れさられてしまった。ところが享保4年(1719)2月、筑前国怡土郡長糸村に住む、猟師源兵衛の庭先に血まみれの浪人風の男が倒れていた。源兵衛は急いで傷の手当てをしたが、「羽金山に黄金十万両」と言い残して息絶えてしまった。源兵衛が浪人者の懐中をさぐってみると羊の皮に書いた地図と十字架のついた印籠がでてきた。これが黄金を隠した地図かと長糸村の家をたたみ、羽金山の南側の中腹に小屋を建て、黄金探しに没頭した。しかし、黄金は見つかることなく時のみが過ぎ去っていった。ある日のこと、いずこの者とも知れぬ男がやってきて、自分は黄金を探していると話しをして立ち去っていった。数日後、源兵衛が秘密の地図を持っていることに気づいた男によって殺されてしまったという。黄金をめぐる悲しい結末であった。
 これは「黄金の秘境」のテーマで書かれた志摩達夫氏の作である。

出典:富士町史下p.627


伝説紀行 羽金山の埋蔵金 佐賀市(富士町) 古賀 勝作
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/339haganeyama.html
 

天堂城埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2014年11月16日(日)17時51分17秒
返信・引用
  天堂城埋蔵金伝説
http://www.geocities.jp/yuujirou8/siro/Gallery-7-16-1.html

天堂城(輪島市別所谷町)には温井氏(天堂城)が、軍資金を隠した埋蔵金があると言う伝えがある。

「★伝説1」弘治元年(1555)
温井紹春暗殺直後に畠山義綱軍の攻撃に備えて温井紹春の家臣達は軍資金を天堂城に隠した事が、天堂城埋蔵金伝説と言われている。

何故 温井紹春の軍資金なのか?
温井紹春は畠山家の実力者で、京の三条西実隆(内大臣・歌人・書家)と交流したり、独楽邸を建立したと言われ 豊富な資金力があった。

「★伝説2」天正6年(1578)
別説では長連龍・前田利家に七尾城を攻められた時に温井景隆の家臣達は七尾城から馬七頭に金を積んで、天堂城に埋めたと言われている。

何故 温井景隆の軍資金なのか?
天正5年(1577)越後の上杉謙信(春日山城)に内応して畠山春王丸(12代)政権の実力者長続連(七尾城城代・穴水城)を殺害して七尾城を支配する。
温井景隆の軍資金と言うより、畠山氏(能登守護職・七尾城)の軍資金だろう。

「★伝説1」・「★伝説2」に関して後日 資料を集めてもっと詳しく書きます。


歴史
ーー温井氏(畠山家老)と畠山氏(能登守護職)の関係ーー(参照 能登の合戦)ーー

天文年(1554)
温井紹春(畠山家老・天堂城)は遊佐続光(守護代・府中館))を追い落として畠山義綱政権の政局を動かし、畠山義綱(能登守護職)をも追い出して七尾城を占拠する。

「★伝説1」弘治元年(1555)
畠山義綱は飯川光誠邸(畠山家老・江曽山城)で温井紹春(畠山家老・天堂城)を暗殺する。

弘治元年~永禄3年(1555~1560) 弘治の内乱
紹春の死後 温井続宗(畠山家老・天堂城)は本願寺勢力と結び畠山義綱・飯川光誠と対立する。

永禄元年(1558)4月
弘治の内乱途中に温井続宗は討死する。

永禄3年(1560)始め
反乱軍の温井残党を能登から一掃して弘治の内乱は終結する。

永禄9年(1566)
永禄の政変・・・仔細省略
畠山義慶政権(10代)になる。

永禄12年(1569)
永禄内乱・・・仔細省略

天正2年(1574)
畠山義隆政権(11代)になる。

天正4年(1576)
畠山春王丸政権(12代)になる。

天正5年(1577) 七尾城の開城
遊佐続光(府中館)は上杉謙信(春日山城)に内応して七尾城を開城する。
上杉謙信方の温井景隆(天堂城)は半年~1年間程七尾城を支配する。

「★伝説2」天正6年(1578) 七尾城を開渡す
能登を支配した上杉謙信(春日山城)が死去すると 長連龍(穴水城→福水城)・前田利家(越前府中城→菅原館)に菱脇で敗れ 七尾城・天堂城を攻められ 温井景隆(天堂城)は敗走する。

天正10年(1582) 本能寺の変
菱脇で敗れ、越後(春日山城)に敗走していた温井景隆(天堂城)は本能寺の変後に能登を奪回しようとして能登に入るが、佐久間盛久(当時の金沢城城主)に殺害される。

余談
■埋蔵金が眠っているらしい場所を実際に掘った人がいるが、何も出なかったと言う。
 

土肥の黄金伝説

 投稿者:N  投稿日:2014年11月14日(金)17時38分56秒
返信・引用
  土肥の黄金伝説
http://www.izutoi-shiosai.com/toi/rekishi/02_toi_ougon_densetsu.html

>黄金の国にふさわしいほど土肥は、金銀と関係が深い里と云われます。
>春になると黄金色に染まる太陽の光を十分に浴びた甘夏が実り、地底には本物の金銀鉱脈、初夏には黄金色の枇杷が色づき、秋から冬にかけて黄金に輝く夕陽、海には夕陽に煌めく波砂金、数々の金山開発にまつわる埋蔵金伝説など、まさに黄金の里であります。

天城山あたりに何か有ってもおかしくないような気もしますね。


>今でも土肥の地下には金銀があります。
>一説には牛が寝ている姿をした鉱脈があるとも云われています

どこかの話とそっくり・・・
 

明智光秀の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2014年11月 9日(日)14時31分49秒
返信・引用
  http://www.city.sasayama.hyogo.jp/minwa/tannan/mdt030.html
ホーム > 地域情報データベース > 民話と伝説 たんなん > 明智光秀の埋蔵金 ■追入

其の三十●明智光秀の埋蔵金 ■追入

 明智光秀が織田信長の命をうけて丹波攻めしたのは、今から約四百年前の天正三年から七年にかけての二度に及んでいます。
 ニ度目の天正六年には、氷上郡と多紀郡の境である金山の山頂に一夜のうちに金山城を築城したと伝えられています。
 ある時、城中より出た光秀は、宿場町としてにぎわっている追入の一軒の宿屋に入り、主に書くものを求めると、主人は真新しい鍋ふたを差し出しました。
 すると光秀は矢を持って
   金山の 尾の尾の先の尾の先に
   朝日照らす木のもとに
   小判千両 有り明の月
という歌を書いて帰城しました。
 後の世になってそのことを知った里人たちは、その鍋ぶたに書かれている歌こそが光秀が黄金を埋めた所に違いないと大騒ぎになったのです。
「朝日照らす気」というのは、白南天に違いないと白南天をさがす者、穴を掘って壷に入れているはずだからその上を歩くと音が変わっているに違いない、とさがす者などが出ました。
 金山城周辺に伝わった光秀の埋蔵金のありかを示す歌は、この他にも宮田地方には
   夏栗の 尾の尾の先の尾の先に
   黄金千両 有明の月
として伝わり、草山地方には
   朝日射す 夕日輝く花の木のもとに
   黄金千両 細縄千ひろ
として伝わっています。
 光秀の埋蔵金説は、金山城から尾根を伝って夏栗山、三尾城、さらには草山の細見城へと伝わったのでしょうか。
 こうした言い伝えは、つい最近まで、子供達がハイキングに金山に登る時にはいつも話題になっておりました。
 

曲淵五重石塔

 投稿者:N  投稿日:2014年10月25日(土)11時26分5秒
返信・引用
  http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/152

紹介文
 本塔は室町時代の造立と推定される市内でも数少ない層塔である。
昭和32年、曲淵小学校前の畑畔にあったものを校庭に移建したものだという。
黄褐色の粗質砂岩製で、基礎から相輪上端までの高さは、275cmにおよぶ。地覆、基礎、塔身のほか、上層は軸部を造り出した笠石を重ね、相輪を頂く繁層式であるが、第3層の軸石だけは、第2層笠石の上部を削って別石を嵌めた後補である。
基礎と塔身は丈高く、いささか不安定な感を与える。
 現在の正面は西向きとなり、塔身の正面には坐像四方仏の浮彫があるが、風化が甚だしく、彫技や尊容は確認できない。
他の三面は、無地である。笠石の軒は薙刀反りを呈し、降棟の反りは至って浅く、相輪の伏鉢は円筒状に丈が高い。無銘であるが、建立年代は室町時代と見られる。
 伝説によれば、肥後国から小国孫右衛門が落ち来てこの地で没したが、後年その孫娘にあたる尼が尋ねてきて菩提のためこの塔を建て、千部の経を納めたとされている。
また、『早良郡志』によれば「朝日さす夕日ちらちら花の木の下小金千両埋め置く」という埋蔵金伝説を示した歌が言い伝えられていたという。
 

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