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銭がめと古銭

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月26日(月)23時09分37秒
返信・引用
  新居浜の昔話(上部編)
75.銭がめと古銭
http://hobby.ifdef.jp/mukasi/zyoubu/mukasizyoubu.htm#75

昭和五二年四月、新居浜市が考古資料として文化財に指定した。
大正十五年(1926)三月十八日、新居浜市中村二丁目、松本仁平氏の畑から珍しい銭がめが発見された。一家八人が総出でゴボ地こしらえに畑を掘っていた。当時二○歳の禎蔵氏(今なお健在)のくわの先にかちっと音がした。これが実に珍しい銭がめの口であった。当然あったはずの「ふた」が、その時には無かったので、雨水も浸入したであろうし土も詰まっていたが、その中には四角い穴のある古銭が青さびで横に一列にびっしり詰まっていた。かめが大きいのでみんなが協力して掘出し、そこから三○○メートル近い自宅まで運搬するのがたいへんな苦労であった。
かめの口径四二センチ、胴は四五センチと六三センチのだえん形、高さ五八センチ、灰色、林質は硬質。
このニュースは、全国の新聞に報道された。銭がめと古銭は松本家の宝として、松本節太郎氏宅にたいせつに保管されている。
古銭の重量三○八キログラム(発掘当時三一一キログラム)枚数約八三、三○○枚、さびてはいるが銭紋が読みとれるものがほとんどであるともいわれている。
当時、村中大きな話題になって見物客も多かった。荷車に積み、村人、子供たちが綱引きして、角野警察署へ運搬した。その様子は、桃太郎が鬼が島から宝物を持ち帰ったような格好であった。その後期限が来ても所有者なし、で、そっくり返してもらったのであった。
新居浜文化財保護委員長、合田正良氏が調査して発表された資料によると、
これらの古銭は、中国の宋銭で、古い唐時代のものもあり。その中から「和同開珎」が一枚見付かった(あまりにも枚数が多いので全部は調べてない。)。最も新しいものとしては、中国南宋の成淳元年(1265、鎌倉時代)のものであった。それ以後のものが見当たらなかったので、おそらくその頃に埋められたと推定される。
当時一文銭にて、米三升と交換することができたので、これだけの銭で、米六、二六五俵を買うことができた計算になる。現代の米一俵の値段を一八、六七○円と仮定すると、換算して約十二億円の価値となる。
これほど巨額の銭をなぜにこの地に埋蔵したか。当時中村本郷に、役所がおかれてあったことや、現中萩中学校のあたりに古墳が多く集中していることから、この地に住居していた豪族が埋めたのかも知れない。白山神社は東面してい、るが、真東でなく約五度南にかたよっている。銭がめの存在した位置が神社から三○○メートルで、その方向になっている。
元明天皇の慶雲五年(708)武蔵の国から銅が献上ざれた。朝廷においては、銅の乏しい時代のこととて、たいへん慶事として、年号を和銅と改め、唐の貨幣制度にならい「開元通宝」を範として「和同開珎」という銭をつくった。しかしその量は少なかった。
貨幣が流通しはじめてのち、平安、鎌倉時代に至ってさかんに中国の宋銭を輸入してこれが我が国の通用貨幣となった。
松本家で発掘した古銭も、ほとんどが宋銭と唐銭で、古いものとしては、唐武四年(621)こも見られる。
立川増吉氏が最近「伊予の発掘古銭」を自費出版した。氏は終戦後外地から引揚げ、愛媛県庁に勤務して、県教育委員事務局嘱託社会教育係に勤務した(現在九○歳にて健在)。
氏が一度松本家を訪れ、山ほどある前記古銭の中から一握りを調べた。個数一四五個、二五種類の中に、開元通宝(621)が三一個存在した、なおそれらの銭文を記録している。
今後、誰かの手によって、発掘古銭全部を詳細に調査研究されることでしょう。

(中村 武田進 記)
 
 

光明寺の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月26日(月)23時05分17秒
返信・引用
  新居浜の昔話(上部編)
35.光明寺の埋蔵金
http://hobby.ifdef.jp/mukasi/zyoubu/mukasizyoubu.htm#35

私の幼少の頃。旧暦の三月三日のお雛祭りは、私にとって楽しい思い出の一つであった。
それというのも、母の手づくりのべんとうを持って、家族総出で山登りをたものだ。
私は当時、胸のうちに、いいようもない期待と望みとを秘めておった。脳裡は「埋蔵金」とか、「南天の木」とか「鳩の鳴き声」とか走馬灯のようにぐるぐるまわっていたということ。なぜ、そんな情念のとりこになったかを、今日はお話することにしよう。
昔、豊巨軍の四国征伐の析、西楠崎の南西およそ七キロメートル方向の山頂に光明寺という古い寺院があったと。その戦の時、豊臣方の大将が光明寺を焼打ちにしたと。燃える火の粉をかいくぐって裏庭の南天の木の下に、住職は寺の大金を埋め、逃亡をはかったが、運つたなく捕われの身となり、その埋蔵金のありかを白状するよう拷問にかけられたが住職は「知らぬ、存ぜぬ。」の一点張りで押し通そうとしたが過酷な責めにたえられずとうとうついには息絶えたと。
それからというもの、月の三日には、一羽のハトがどこからともなく飛んで来て、その南天の木にとまり、「くっくっ。」と鳴いてやまないので、在所の人々はあれは住職の悲業の死をあわれんで鳴いてござると。いつとはなしに口から口へ伝わったと。そのうわさはうわさを生み、ハトが南天の木にとまって鳴いている姿を見たらいちやく大金持ちになるとか。まことしやかに伝えられたそうな。
こんなはなしもまんざら根拠がないわけではないように思えるふしがある。その拠点のいくつかをあげてみよう。
①   馬場(ウマをつなぎ止め休めた場所)、東楠崎南方五キロメートルの地点に約九○坪ていどの平担地があり、在所の人々は「馬場」と呼びならしていたこと。
② 腰水(将兵が体を清めた水場)、馬場に近い谷用で渦まいた瀬があったこと。
③ 鎧ふり(将兵がほこりを払った場所)、腰水の近くに将兵が腰かけたという石積みが今日もあること。
④ 見張り台?山頂の一番台、二番台と呼ばれ敵の侵入に見張りを立て、非常の際はのろしをあげて急を知らせたのろし台としても使われた形跡が残っていること。
以上のように地名か名称が伝わり残っていること。また光明寺の屋根瓦と思われる瓦が発掘されたとか。その瓦を見たとかいう。在所の年寄りは、事実あったこととして伝承していること。
最近、アマチュアの考古学者ばやりでにぎわっているようであるが、たいへんけっこうなことと思う。それぞれ伝承された話とか、ことわざとかには、くめども尺きない人間味というか、人間の渇をいやす滋味がある。「温故知新」古きをたずねて新しきを知るとあるように、いろいろ埋没している民話とか、伝説とかを掘りおこしていきたい。

(神郷 話者 横井光良 再話者 土利野静正)
 

黄金数十万両の埋蔵 上重原町(本郷)

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月26日(月)22時37分16秒
返信・引用
  黄金数十万両の埋蔵 上重原町(本郷)
http://www.city.chiryu.aichi.jp/0000000119.html

みなさんは、日本の各地に伝わる黄金埋蔵(金が地下に埋めてある)の伝説を聞いたことがあるでしょう。それが知立市にもあることを知っている人は、非常に少ないでしょうね。それでは、今からないしょで、知立市の上重原町に、黄金数十万両が埋められている話をしましょう。

上重原町のほぼ中央に重原城がつくられていました。この城は、代だいりっぱな殿様によって治められていましたが、天文十七年(一五四八)、城主島津政兼が、今川義元に味方をしたために、織田信長は、この人をほろぼしてしまいました。
そして、信長は、家来の山岡伝五郎という人を重原城の城主にしました。

このころ、室町幕府がほろんだので、今川義元は、他の者よりも早く、自分が天下をとろうと思い、大軍をひきいて、京都へ行こうとしました。その途中、義元の軍勢は、織田信長の味方である重原城を攻めました。山岡伝五郎は、わずかの兵で、今川勢とよく戦いましたが、数十万人の敵兵にはかないません。
そこで、天文二十三年(一五五四)五月のある夜、伝五郎は、心から信頼している家来の一人をひそかに呼んで、
「この城は、これ以上もちこたえることはできない。しかし、いつかふたたび勢力をもりかえして、今川義元を討たなければならない。そのためには多くの金がいる。その資金にするために、城の中にある黄金をだれにもわからないように埋めておけ。」
と命令しました。
それで家来は、真夜中、数人の手下をつれて、城にある黄金を運び出し、こっそりと埋めました。ところが、城への帰り道、敵に見つかり、手下はみんな殺されてしまいました。

ただ一人生き残った家来は、重い傷を負いましたが、やっとのことで城へ逃げ帰りました。
そして、伝五郎に黄金の埋めた場所を話したのです。
家来が伝五郎に告げた、黄金を埋めた場所は、「朝日の照る、夕日の輝き」ということです。重原城は、その翌日、今川勢に攻めおとされてしまいました。

みなさん、黄金を埋めた場所の、この暗号を知っているのは、日本中でも、ほんのわずかの人たちです。まだ、この暗号は解けていません。この暗号を解いて、数十万両の黄金を探してみませんか。

お し ま い
 

全米が熱狂した“究極の財宝”の発見劇

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月22日(木)09時51分7秒
返信・引用
  全米が熱狂した“究極の財宝”の発見劇
魔の海からついに姿を現した!

http://toyokeizai.net/articles/-/56988
今回の発掘プロジェクトで狙う「1715スペイン財宝船団」。今から300年前にハリケーンによってバミューダ海域に沈んだこの船の財宝はいくつか引き上げられているが、まだ海底には現在の価値に直して300億円近くのクイーンズジュエリーが眠ったままだといわれる。

スペイン王妃の秘宝
その目玉が、「アーク」と呼ばれる黄金の装飾品だ。アークとは「聖体容器、聖(せい)櫃(ひつ)、聖体箱」と呼ばれ、キリストの絵や分身、聖書の言葉を入れて飾られた装飾品の1つである。有名なインディ・ジョーンズの映画「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」もこのアークの事を指している。アークは棺のような大きな物から、小さなケースまで形や大きさはさまざまだ。

実は今から25年前、海底に眠る「黄金のアーク」は発見されている。四角いプレート状でサイズは15cm×5cmほど。全体にきめ細やかな装飾が施された一品だ。「日本人が持つお守りのようなものだ」と、米国の水中考古学者が説明してくれた。

その眩いばかりに光り輝く「黄金のアーク」(記事冒頭の写真)に付けられた価値は、何と約8000万円なのだが、このアークにはさらなる“伝説”がある。中央の扉を開けたときに見られる空洞。これは1715財宝船団が沈没したときに、失われてしまったままなのだ。もしも残りのパーツが発見され完全な姿が蘇った時、その価値は数億円にまで跳ね上がるという。この残りのパーツである「失われた黄金のアーク」こそが、今回番組が狙う究極のクイーンズジュエリーだ。

http://toyokeizai.net/articles/-/56988?page=2
しかし、広大な海の底から一体どうやって宝の在処を探せというのか?番組はその手掛かりを得るため、全米屈指のトレジャーハンターたち20人とタッグを組んだ。リーダーのブレント・ブリスベン氏は、2013年、2度に渡って1715船団の財宝を引き上げている。黄金のネックレスや大量の黄金コインなど、これまでに発見した財宝の総額は5億円を超える。

ブリスベン氏に財宝発見の秘訣を聞いてみた。通常は、ダイバーが金属探知機を手に海底を探索する。だがこれでは、どれだけ時間があっても足りない。そこで今回番組は、最先端のテクノロジーを導入した。

それは「空飛ぶ金属探知機」。開発したのはNASA(米国航空宇宙局)や米軍とも仕事の実績がある研究組織だ。ヘリコプターから巨大な磁気反応機をぶら下げて飛び、海底にある金属反応を調べるというのだ。海底5mまで調べられるので、例え砂の中に宝が埋もれていてもお見通しだという。

最新技術を駆使して宝の地図を作成
この秘密兵器などを駆使した最先端テクノロジーは、ついに宝の地図を作り出した。とはいえ、ブリスベン氏が語る財宝発掘の可能性は「最後は運だね」。

そして取材班は魔のバミューダ海域に挑んだ。突然の嵐、流れの速い海流、照り続ける真夏の太陽。発掘作業は難航を極めたが、“究極の財宝”はあった。「失われた黄金のアーク」は海底から確かにその姿を現した。

300年ぶりに元の姿に蘇った「黄金のアーク」。この発見は、全米のニュースで報道された。その記者会見の場で、トレジャーハンターのブリスベン氏はこう語った。「日本のテレビ局TBSの協力に感謝する」。

テレビ史上最大級の財宝発掘プロジェクト、その一部始終は、1月3日(土)夜18時放送の3時間スペシャル本編で余すところなくお伝えする。
 

「魔の三角地帯」に沈む財宝伝説は本当だった

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月22日(木)09時47分18秒
返信・引用
  「魔の三角地帯」に沈む財宝伝説は本当だった
バミューダ海域に消えたスペイン船を追う

http://toyokeizai.net/articles/-/56951
魔の海域に沈む伝説のスペイン財宝船団1715
今回狙うのは、アメリカ・フロリダ沖、バミューダ海域に沈んだスペイン財宝船団1715にまつわる財宝伝説だ。

フロリダ半島の先端と、大西洋にあるプエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域、「バミューダトライアングル」「魔の三角地帯」などと呼ばれ、昔から多くの船が行方不明になったことで知られている。

しかも、消えた船の残骸が全く発見されなかったり、消息を絶つ直前にコンパスや計器の異常が発生したりするなど、そのミステリアスさが注目され、数多くの小説、映画の題材となってきた。行方不明の理由として、ブラックホール説・宇宙人説など、様々な仮説が唱えられてきたことでも有名である。

バミューダ海域といえば、天候が非常に変わりやすく、潮の流れが速い。そして、ハリケーンが発生しやすいのが最大の特徴である。バミューダで発生するハリケーンの威力はすさまじく、大型船でさえ簡単に海の餌食となってしまう。まさに魔の海域なのである。

http://toyokeizai.net/articles/-/56951?page=2
16世紀以降、この海域を頻繁に航海していたのがスペイン船だ。スペインは、大航海時代に南米大陸に進出。その時代に栄えていた黄金国家(アステカ・インカ帝国)を次々と征服し、植民地化に成功した。そこで手に入れた大量の金銀財宝を持ち帰る船は財宝船団と呼ばれ、バミューダ海域を経由してスペインへと航海していた。

中でも莫大な財宝を運んでいたのが、1715スペイン財宝船団。この船団が伝説となっているのは、積み込まれていた財宝が普通の代物ではなかったからだ。実は1715船団が運んでいた財宝は、当時のスペイン国王フェリペ5世から、婚約者のエリザベッタへの結納品だったのだ。

フェリペ5世の婚約者エリザベッタは、スペイン繁栄時代を謳歌し贅を極めた生活を送っていた。誰よりも財宝をこよなく愛していたエリザベッタは、自分が望む宝石や宝飾品を結納品として受け取るまでは、フェリペ5世との結婚を承諾しようとしなかったという。そこでフェリペ5世は、1715財宝船団に対し、エリザベッタが納得する財宝を運んでくるようにと命令した。

海底に消えた400億円分の財宝
国王フェリペ5世の命令を受け、1715財宝船団に積み込まれた財宝の総額は、現在の価値に直して何と400億円。その中には、130個の真珠で装飾されたペンダントや74カラットのエメラルドの指輪など、まさに最高級の財宝が含まれていた。

今から300年前の1715年7月23日、400億円分のクイーンズジュエリーを積んだ11隻の財宝船団は、キューバを出港する。しかし7日後の7月30日、スペインに向かっていた財宝船団は、突如フロリダ沖で沈没する。魔のバミューダ海域でハリケーンに遭遇したのだ。フェリペ5世が婚約者エリザベッタに贈るはずだった400億円もの財宝は、海の藻屑と消えてしまった。

一方、沈没から300年。現在に至るまでに、海底からは数々のクイーンズジュエリーが発見されているが、「エメラルドのイヤリング」「クリスタルの金のペンダント」「黄金の杯」など、これまでに引き上げられた財宝の合計は100億円分にすぎない。

つまり海底にはまだ300億円分のクイーンズジュエリーが眠ったままなのだ。?これこそが、世界中のトレジャーハンターたちを魅了してやまない財宝伝説である。

今回番組は、魔のバミューダ海域に沈んだ伝説のクイーンズジュエリー発掘に挑戦。そして、テレビ史上最大級の財宝発見に成功する。海底から現れる金銀財宝。カメラの前で、怒涛のゴールドラッシュが始まった。

伝説は本当だった!われわれは確かにその目で財宝の姿を確認し、一部始終をカメラに収めた。

第2回は、今回発見したクイーンズジュエリーの中でも最上といわれる逸品「失われた黄金のアーク」の伝説についてリポートする(2015年1月2日配信予定)。
 

富士山の古銭

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月15日(木)12時47分26秒
返信・引用
  とよた 時・山のゆ-もぁ-と山旅漫歩゚【ひとり画通信】

▼402号「富士山・火口周辺の古銭」
http://toki.moo.jp/gaten/401-450/gate402/gate402.html
・【概略】
富士山の噴火口は内院と呼ばれ、江戸時代はそれは神聖な場所でし
た。信仰登山の富士講の信者たちはお鉢めぐりをしながら、さい銭
を投げるのが習慣だったといいます。これは室町時代あたりからは
じまった習慣だったそうです。この賽銭が長い年月のうち、風で噴
火口の底から吹き上がり、いまでもお鉢めぐりの登山道で見つかる
ことがあるそうです。

▼761号 「富士山・火口の賽銭拾い」
http://toki.moo.jp/gaten/751-800/gate761/gate761.html
【概略】
かつて富士登山者は火口に賽銭を投げる習慣があった。その賽銭を
拾う権利が村山修験にあったが駿河に侵攻した武田軍が剥奪、さら
に須走浅間・浅間大社がからんで紛糾・訴訟がつづいたという。日
本一の霊峰でも金銭がからめば話はまた別。集めた賽銭は神社の修
理に当てられたという。

▼765号 「富士山・火口内に入った男たち」
http://toki.moo.jp/gaten/751-800/gate765/gate765.html
【概略】
「今ニ火アリテ、其アツサタヘガタシ。草鞋ヲ三足カサネテハキテ
…」やっと通り過ぎるとこんどは雪解け水が集まった川。どこに流
れるのか。富士山閉山後、火口の賽銭の拾い残しを盗ろうと、こっ
そり火口に入った男たち。地熱などに悩まされながら拾った賽銭は
わずかだったと嘆いている。
 

八王子の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月13日(火)00時33分5秒
返信・引用
  http://xyn.jp/~s_tanaka/GJH_20_hatioujinomaizoukin.pdf

・ 「元八王子町 八幡神社境内」
・ 建久2年(1192)、梶原景時が源頼朝の命により鎌倉鶴ケ岡八幡宮をこの地に勧請した時に植えたと伝えられる、高さ30m余、目通り幹囲15mの「梶原杉」と呼ばれる都内随一の大杉があった。地上10mのところから枝が下向きに垂れているところから「逆さ杉」とも言われていた。景時がさした枝から芽をふいたという伝説もある。長い間、神木として崇敬されていたが,昭和47年(1972)枯死。
現在、根株の部分が保存されている。八王子市郷土資料館玄関に輪切の一部がある。また,昭和30年(1955)頃、この附近で「埋蔵金発掘」が行われたことがあったが、埋蔵金は出なかった。


・ 「墓の下の埋蔵金」
・ 谷中の瑞輪寺の墓地に、海保孫右衛門という者の墓があった。
・ 自分は海保孫右衛門の子孫と称する、子安村(東京都八王子市)の孫右衛門という男が、『先祖から伝わる文書に、墓の下に一万両が埋められていると書いてあった。墓を掘り返す許可をいただきたい』と、寺社奉行に願い書を提出した。享和4年(1802)のことである。
・ 寺社奉行はその願いを却下した。文化元年(1804)、孫右衛門はふたたび願い書を提出したが、またもや寺社奉行は却下した。文政10年(1827)、孫右衛門はみたび、願い書を提出し、とうとう寺社奉行も墓を掘り返すことを許可した。
・ 勇み立った孫右衛門はさっそく人足を集めた。同年の8月23日から、寺社奉行と町奉行所の役人の検使のもと、墓の掘り返しが始まった。幅二間(約3.6m)、深さ三丈(約9m)ほど地面を掘り下げたが、出てきたのは錆びた脇差一腰と鏡一面だけで、金はなかった。9月1日、穴を埋め戻し、墓を元のようにした。人足の手間賃など、経費は合わせて60両もかかったという。
・ その後、いろんな憶測や噂が飛び交った。「本当は3,000両、出てきた。しかし、なまじ金が出たと言えば、『天下の通用金を墓に埋めるなど、不届きである』として、子孫の孫右衛門も遠島になりかねない。そこで、孫右衛門は検使のお役人には、金はなかったと申し立てたのだ」などという、穿った見方もあった。
・ この話は、藤岡屋由蔵編『藤岡屋日記』に拠った。この事件は、『道聴塗説』にもくわしく経緯が記されている。
 

流山の埋蔵金?

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月13日(火)00時25分35秒
返信・引用
  私営館
http://www.d1.dion.ne.jp/~mzn/contents/sinsengumi%21/set.html
流山埋蔵金伝説!? (1) (2改)

ママ・サポートの日々
http://blog.goo.ne.jp/mmsp2007/e/d4c18412fa718b49a8c0014cc7fee6e3
徳川埋蔵金発掘!
 

(無題)

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月 8日(木)16時31分59秒
返信・引用
  小松長者の埋蔵金(其の一)
http://dostoev.exblog.jp/15010220/
明治12年、小友村の山中で、半ば白骨化した死体を付近の人が発見したのだという。死体の主は、投げ出されてあった荷物から呉服行商人であろうという事だが、面貌がはっきりしないとの事。その死体の主の反物が入った荷物を調べると、中から2キロの砂金と直径25センチの黄金造りの酒杯1個が転げ出たのだと。荷物と一緒にあった帳面から、仙台は狐小路の呉服屋である戸田屋の小四郎とわかったのだという。

しかし家族の者に尋ねても、砂金と金の酒杯の出所はわからないのだと。ただ金の酒杯には下り藤に松をあしらった紋がついており、これは小松長者の分家である、菅沢家てせ用いた家紋という事がわかったのだと。もしかして、この戸田屋の小四郎は、過去に伝えられる小松長者の埋蔵金の一部を
山中をさ迷い歩くうちに発見したのではないか?という事だったらしい。ただし、死人に口無しで、真相はわからなかったのだと。それでは、遠野市小友町に伝わる小松長者(小松大尽)の埋蔵金伝説とは?

小松長者の死後、跡目争いがあったようで、本妻の子である秀丸18歳と妾の子である早人22歳がいたそうである。小松長者の死する時、本妻の息子である秀丸は、小松長者の代理で高野山に行っていたそうな。その間、妾の子である早人は叔父である宗和と相談し、本妻の子秀丸を殺害しようと企てたが失敗に終わり、逃げてしまったのだと。

実は、秀丸が高野山から帰ってくる間に、早人と宗和は小松長者の宝を5箇所にわけて隠したのだという。陰謀が発覚後、早人と宗和は1箇所の財宝をかかえて逃げたと言う事だが、どうやら逃げた船は嵐に遭い、沈没してしまったのだと。しかし人質として宗和の息子がいたというのだが、その息子の衣服から宝の隠し場所の地図を発見し、秀丸はその地図を手がかりに1箇所の財宝の隠し場所を
探し当てたというのだが、結局残りの3箇所はわからずじまいであったのだと…。

享和三年、仙台の「いさらご屋」という旅籠に、護郎作という下男がいて、一枚の板に文字とも記号ともつかないものを一面に刻んだものを大切に持っていたという。

ある日、江戸の儒学者である金沢西斎という人物が、その旅籠に泊まり、その護郎作の所持している謎の板切れに興味を持ち見せてもらったのだという。それから西斎はそれを丹念に写し取ったのだと。その謎の板切れは、牡鹿半島の女川湾に近い漁村に住んでいた護郎作の親父が、難破船から浜辺に流れ着いた男の持っていたものだったそうな。それがどうも大切なものだったらしいので、捨てずにいたものを護郎作が所持していたという事だ。

護郎作の話を聞いてピンときたのか、西斎は江戸の豪商である越中屋甚兵衛を口説き落とし、小松長者の財宝探しに乗り出したのだという。つまり、西斎は、その難破した男とは、小松長者の財宝を持ち逃げして難破した宗和の一味の男であろうと確信したのだったようだ。

文化2年、西斎と甚兵衛は、十余人の共を連れて小友村に辿り着いたが、その時は財宝探しが失敗に終わったのだと。二度目の財宝探しは文化5年、別に出資者として丸目屋市次右衛門も加わっのだと。その時は、小友村から三里離れた剣ヶ峰を探したという事だが、今となっては、その剣ヶ峰がどこかもわからない…。

この時も財宝が見つからず、さて引き上げようかという時、西斎がもう一度探したいという要望から、山の頂近くで五坪ほどの広さの平坦な岩石平を発見したのだと。その中に2メートルほどの岩があり、岩の周囲は一坪ほどで、一抱えもあるような石で1メートルほどの高さに積み上げてあったそうな。そこに西日が差し込んだ時、内部にあった黄金が輝き、やっと1箇所の場所を発見できたそうな。

この発見に力を得た一行は、引き上げる予定を取りやめて、その後さらに1ヶ月ほど延長して埋蔵金探索を始めたのだという。しかし結局、残りの2箇所を発見する事ができずに帰路についたのだという…。


小松長者の埋蔵金(其の二)
http://dostoev.exblog.jp/15010252/
西斎達が江戸に帰る途中、西斎が腹痛を訴えた。その為、西斎一人を残し、江戸に帰ったというが、その西斎は、その後行方がわからなくなり10年の月日が流れたのだという。ところが文政三年に、西斎の母の元に、一通の手紙が届いたのだと。そして無事に生活しているのがわかったのだが、その手紙の最後に歌が添えてあったと。

「みちのくのしのぶのさとやみあかしにながしながよのこがねはさく」


歌としては稚拙だが、何か意味があるものと思い、その西斎の住んでいるという小友村まで旅する覚悟を決めたのだという。その西斎の母が旅立ったのは、準備で手間取ったせいもあり、文政4年の春であったそうな。その母がやっと遠野の小友村に辿り着き、西斎の人相を説明しながら聞きまわったのだと。すると「開の平の仙人」だろうという事になった。ただし現在、小友には「開の平」という地名は無い…。

母は、開の平へと向かい、やっとの事で西斎の住居に辿り着いた。しかし、すでに西斎は病を患い、10日ほど前に亡くなっていたのだと。その西斎の下男がおり、西斎の言いつけ通りに、その母をある場所に案内したのだと。

案内されたのは、部落を見下ろせる台地に建てられたお堂であったそうな。お堂の正面には、黒くくすんだ観音像が飾られていたのだが、実はその観音像は、黄金でできた観音像であったと。母は下男から渡された、西斎の手紙を受け取り読むと、江戸に帰る途中腹痛になったが、埋蔵金探しに未練があった為、江戸へは帰らず再び小友村に戻り、埋蔵金を探したのだと。しかし長年住んでいるうちに、わずらわしい江戸の生活よりも小友村での生活が心地よくなり、居ついてしまったのだという。

そして、残りの宝。一つの峰と、一つの沢に隠された宝を三年がかりで西斎は見つけたというのだ。その宝の一つが、このお堂に飾られている黄金の仏像であるのだと。そして他の宝は、全てまとめて袋沢に隠しており、その袋沢の隠し場所の地図が添えられてあったのだという。しかし、袋沢という地名も、現在の小友には無い…。

その後、母は地図を頼りに袋沢へ行ってみたのだという。かって人が足を踏み入れたとも思われないような場所の崖っぷちに、自然石を刻んで造った小さな塔があったと。その崖の下は岩の間から流れ出した水が小さな流れを作っており、その流れに浸った岩の裂け目を蓋のように塞いだ一枚岩があったと。その岩を取り除くと、人が一人潜り込めるような穴があって、穴の中は一段高く、奥行き6メートル、幅2メートル。高さは大人が楽々立って歩けるほどの洞窟となってい
た。

その突き当たりに、小石を積んで造った幅120センチ、長さ2メートル程の長方形の囲いがあって、お宝がギッシリ詰まっていたのだと。ただ、母一人の力ではこれらの宝を持ち出せないので、砂金を少量だけ持ち、部落に帰ったのだと。その母は、西斎の残した地図とは別に、自分の目で見て歩いた記憶を頼りに別の地図を書記したという。そして部落の人たちには、この仏像を持って江戸へ一旦帰ると言い残して、小友村を後にしたのだと…。

西斎の母は、急いで江戸へ戻うとした。帰って準備を整え、再び小友村に戻り埋蔵金を回収する為だ。しかしその旅の途中、抱えている黄金の仏像に気持ちが向いていたせいなのか、持っていた財布をすり取られてしまったのだと。その財布の中には、埋蔵金の在り処を示す地図も入っていたのだと。しかし、今更財布の犯人を捜しても仕方がないと、急いで江戸へ戻ったのだと。

西斎の母は元々神経質な人物で、いろいろと気苦労と旅の疲れが溜まった為か、江戸の我が家に戻った頃には、そのまま牀に臥せてしまったのだという。体は思うように動かず、自ら再び小友村へ行けないと悟った西斎の母親は、以前西斎と共に埋蔵金探しへ小友村へと赴いた、越中屋甚兵衛を呼び寄せ、事の顛末を語り、代わりに埋蔵金探しへと行くように頼んだのだと。

埋蔵金の在り処の地図を失ったものの、西斎の母親は、自らの記憶を頼りに地図を書き上げ、甚兵衛に託したそうな。それから1ヶ月ほどして、西斎の母は死んでしまったのだという。

越中屋甚兵衛はその当時、70近い老人となっていた為、東北までの長旅をする気力は萎えていた。そこで息子に埋蔵金探しを任せたのだと。甚兵衛の息子は文政6年、出入りの鳶の者など十余人を引き連れて小友村に乗り込んだのだという。しかし、西斎の母の記憶の誤りがあったのか、探し方がわからなかったのか、何も得るものが無く、引き上げてきたのだと。そして文政11年にも再び小友村を訪れたが、やはり失敗に終わったのだと云う。

その後、越中屋だけではなく、江戸の有志達が天保3年、弘化4年と、4度も小友村へ探索へ行ったそうだが、全て失敗に終わったのだと云う。それで、西斎の母親の盗まれた地図により、全て盗まれたのではないか?という結論に達して、その埋蔵金探しに終止符がついたようであった…。
 

馬引沢峠の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月 8日(木)11時20分18秒
返信・引用
  日出町
馬引沢峠の埋蔵金
http://www.town.hinode.tokyo.jp/kyoiku/91s0g20000000qjj.html
 むかし、雨のはげしく降る日のことであった。1台の荷車がまひきざわ(馬引沢)峠を青梅の吉野方面へと登って行った。人夫引く荷車のかたわらには、数人の侍がつき添っていた。

 雨は、すでにいく日も降り続き、峠の道はひどくぬかっていた。荷車は輪をとられて大きく傾き、倒れんばかりになっては、また逆に傾く、文字どうり泥まみれの道中であった。荷は重く、侍も人夫も疲れはてていた。

 実は、この荷車には金貨・銀貨がまんさい(満載)されており、侍はそのためのごえい(護衛)であった。とき(時刻)もおそく、峠の道はすでにうす暗くなっていた。またもや、荷車は大きくかしいで、そのまま動かなくなってしまった。おそらく車の軸が折れたからであろう。

 これ以上、荷を積んだまま峠を越えるのは無理と判断したのだろうか。侍たちは人夫に荷をおろすように命じた。そして、どこか適当な場所にそれをかく(隠)して、ひとまず、今日のところは引きあげ、天気の回復を待ってふたたび出なおそうと相談がまとまった。

 荷をおろし終わると、道から少し入ったやぶ(薮)の中に穴を掘らせ、そこに荷をひとつのこらずうず(埋)めた。雨はその間もようしゃなく降り続き、さいわい、この作業中、まったく人通りもなく、ほかに見ているものもなかった。無事処理が終わったとみるや、侍たちは秘密を守るためと、人夫をその場でき(斬)りすててしまった。

 それから、侍たちは急に今埋めたばかりの荷を自分のものにしたくなり、たがいに斬り合いをはじめた。それは、あたかも雨の中のじごくえ(地獄絵)のように、むごいものであった。傷つき、死に、かろうじて一人、生きのこった侍も重い傷を負っていた。

 一夜が明け、里人に助けられた侍は、故郷へと帰っていった。
 そして、いく年かの時が流れた。
 ただ一人、生きのこった侍は、傷をなおして人夫をともない荷車を引いて馬引沢峠へとやってきた。今日こそ、数年前に埋めた金貨・銀貨を一人じめできると、侍は心うきうきしていた。

 しかし、歳月は、侍を思いのままにはさせなかった。かつてのいまわしいさつりく(殺戮)の場も、金貨・銀貨を埋めた場所さえも、草が生え、木が茂って、そこがどこであるのか、まったくわからなくなっていた。

 侍は何度も何度も場所を変えて掘ってみた。しかし、なにひとつとして出てはこなかった。
 そして、この馬引沢峠には、今でもそのときの埋蔵金がねむり続けているという。
― おわり ―

問合わせ先: 文化スポーツ課 文化財係
電話042-597-6539



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