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北京原人

 投稿者:N  投稿日:2015年 3月29日(日)20時56分8秒
返信・引用
  これが事実なら、国内の北京原人がらみの旧日本軍の財宝話は・・・

北京原人頭蓋骨紛失の謎に新たな手がかり 秦皇島の地中に
http://japanese.china.org.cn/culture/2012-03/26/content_24988605.htm

1929年12月2日、中国の著名な人類学者・考古学者・地質古生物学者である裴文中氏は発掘隊を率いて、北京周口店で北京原人の完全な頭蓋骨を最初に発見した。これにより、類人猿が存在していた事が確立され、ダーヴィンの「人類が猿人から進化した」という説を証明する重要な物証となった。これは「北京原人」頭蓋骨(前額骨)の実物化石(資料写真)

中国と南アフリカの研究員は、3月号『南アフリカ科学雑誌』で研究報告を発表し、北京原人の頭蓋骨の「行方」に関する新たな手がかりが見つかったことを明らかにした。

南アフリカ・ウィットウォーターズランド大学(University of the Witwatersrand)人類学教授リー・ベルガー氏と中国科学院脊椎動物考古人類学研究所の研究員2名は、共同でこの研究を成し遂げた。

研究員らは第2次世界大戦時のアメリカ海兵陸軍部隊の兵士、リチャード・ボーエン氏の記憶を参考に、北京原人の頭蓋骨が中国秦皇島の某駐車場の下に埋まっている可能性があると考えた。報告書によると、ボーエン氏とその家族は直接、考古学の権威であるウィットウォーターズランド大学を訪れ、北京原人の頭蓋骨を「最後に見た」いきさつを教えてくれた。

ボーエン氏の記憶によると、1947年、彼は秦皇島にある米海兵隊基地「キャンプ・ホーカム」で戦闘に参加していた。米軍がシェルターを作るために掘削作業を行っていたときに、北京原人の頭蓋骨の入った木製の箱を発見したという。当時、兵士らは木箱を機関銃の台として利用していた。その後、ボーエン氏は捕虜になったが、彼の推測では、米軍はその頭蓋骨を元の場所に再び埋めた可能性が高いという。研究員はこの記憶を頼りに秦皇島で調査を行ない、ボーエン氏のいう「キャンプ・ホーカム」の跡地を発見した。そこは繁華街の駐車場となっていた。

研究員によると、ボーエン氏は北京原人の頭蓋骨を最後に見た人物である可能性があり、多くの情報がある中で、彼の話が「最も信憑性が高い」という。ウィットウォーターズランド大学は、「北京原人の頭蓋骨は、依然行方知れずのままか、或いは秦皇島のアスファルトの地面の下に埋まっている」と発表した。

1929年、中国人類考古学者、裴文中氏は50万年前の北京原人の完全な頭蓋骨を最初に発見した。1941年に太平洋戦争が勃発する前、頭蓋骨の化石を保護する目的から、それは北京から撤退するアメリカの海兵陸軍部隊に託された。同年12月5日、部隊は汽車で秦皇島に向かっている。しかし、その後の真珠湾攻撃によって、日本軍は北京、天津の米軍兵を捕虜にしたため、北京原人の頭蓋骨の行方はそこで途絶えてしまった。この頭蓋骨の紛失事件は人類考古学史上の「世界怪奇事件」の一つとなっている。

「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年3月26日


第2次大戦で消えた北京原人の骨を求めて
http://www.archeonews.net/2012/03/2.html

Report from Former U.S. Marine Hints at Whereabouts of Long-Lost Peking Man Fossils
http://blogs.scientificamerican.com/observations/2012/03/22/report-from-former-u-s-marine-hints-at-whereabouts-of-long-lost-peking-man-fossils/
 
 

北条氏邦(光福丸)の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2015年 3月29日(日)19時32分20秒
返信・引用
  http://www.omaedanakacyoyataibayashisaikou-2012.com/jyuku.html
>『鉢形城埋蔵金伝説』
鉢形城開城の折、光福丸と共に密かに御金蔵から小前田中町の地に財宝が持ち込まれたそうです。
長老から聞いた『あそこに埋まってると思うんだ』と言う場所。一度は、挑戦してみたいと思っています。


http://gi001.gokenin.com/tanbou/11_saitama/06_ohsato/007_hanazono/hanazono.html#machida
>主君氏邦の子光福丸の守役
 町田氏は鉢形城の北条氏邦配下の武士で、町田土佐守は今の寄居町小園に住んでいたとされる。
 天正十八年(1590)の鉢形城篭城戦において氏邦の三男光福丸(当時四歳)の守役を命じられており、『町田家文書』の中に町田土佐守を光福丸の守護役に命じる四月二日付けの氏邦判物がある。開戦前に鉢形城を脱出し、攻め手である前田利家に降伏したようで、前田利家より光福丸の助命と養育を命じる四月十五日付け文書が『町田家文書』にあるという。
 鉢形城は城兵の生命を保証する条件で開城し、城兵たちも鉢形城から離れていった。開戦前に前田勢に降伏していた町田土佐守は居住地を当小前田村に決め、光福丸を伴ってやってきた。その後光福丸の養育に努めてきたが、慶長四年(1599)に光福丸は十三歳の若さで夭折してしまった。町田土佐守は主君の遺児光福丸を小前田原中の空円坊という小堂に埋葬したという。
 慶長五年(1600)に町田土佐守は子の九郎左衛門長延と共に、故光福丸と土佐守の父康忠入道長善の菩提の為、現在に残る「光福山医王院長善寺」を建立したと言われる。そして入道して祐慶と改め、天和三年(1683)に死去したとあるが、あまりにも長生きしているので元和三年(1617)の誤りではないかと思われる。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukajirou/shisekimeguri/omaeda/omaeda-3.html
>12-1.町田家(1)
町田土佐守康忠は、1500貫を領知して鉢形城外の寄居町小園に居住していたとされる、小前田に移住したのは鉢形落城後のことと伝えられている。
  天正(てんしょう)18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで、北国勢の前田利家、上杉景勝ら五万の軍勢が鉢形城に迫ってきた。
 鉢形城主北条氏邦が同年4月2日、信頼している町田康忠の長子土佐守秀房に籠城に対しての奮戦を讃え、この時わずか六歳の光福丸について将来を託した文書(町田家文書)が残っている。
書状読み下し;籠城に相働き候こと、存分たるべし、殊に以て光福丸の儀、先日大殿、たって仰せ渡しの通り、忠節を謁べく者也、よって件の如し、 4月2日 氏邦 町田土佐守殿
大意;籠城に際して、必死の奮戦、抽んでて心に痛み入る。 殊に光福丸の事、先日、父である私からも特にお頼みいたしたように、今後も、忠節を尽くしてもらいたい。
>12-2.町田家(2)
町田土佐守康忠は、1500貫を領知して鉢形城外の寄居町小園に居住していたとされる、小前田に移住したのは鉢形落城後のことと伝えられている。
  天正(てんしょう)18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで、北国勢の前田利家、上杉景勝ら五万の軍勢が鉢形城に迫ってきた。
 鉢形城主北条氏邦が同年4月2日、信頼している町田康忠の長子土佐守秀房に籠城に対しての奮戦を讃え、この時わずか六歳の光福丸について将来を託した文書(町田家文書)が残っている。
書状読み下し;籠城に相働き候こと、存分たるべし、殊に以て光福丸の儀、先日大殿、たって仰せ渡しの通り、忠節を謁べく者也、よって件の如し、 4月2日 氏邦 町田土佐守殿
大意;籠城に際して、必死の奮戦、抽んでて心に痛み入る。 殊に光福丸の事、先日、父である私からも特にお頼みいたしたように、今後も、忠節を尽くしてもらいたい。
 

新府城の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2015年 3月27日(金)10時34分30秒
返信・引用
  新府城の埋蔵金 泉昌彦  

天堂城の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2015年 3月26日(木)21時35分28秒
返信・引用
  石川県観光案内所
http://ishikawa.kanko4u.com/ishikawa/006/07.html
>長氏に攻められた際、天堂城には温井氏の臣が金品を隠したとされ、埋蔵金伝説が伝わる。

天堂城落城にまつわる蔵金伝説
http://nanao.sakura.ne.jp/special/densetu.html#tendo-kin
>(1)弘治の内乱と天堂城
 天堂城と言えば温井氏の居城であるが、義綱による温井紹春(総貞)暗殺事件があり、その直後、長続連に天堂城を攻められ開城した。温井氏はその後、弘治の内乱などで義綱に反抗するが、口能登でせき止められ反乱軍(温井・三宅連合軍)は徐々に衰退していった。この紹春暗殺事件が起こった直後に、残った温井家臣等が義綱の軍が天堂城まで攻め込む事を察知して、それまで貯めておいた軍資金を天堂城の敷地のどこかに隠したのだと言うのが、この天堂城埋蔵金伝説である。

>(2)本当にあるのか埋蔵金
 この話しを聞いて、実際に埋蔵金が眠っているとの場所を実際に掘った人がいるらしいが、何も出なかったらしい。温井紹春はそれまで、畠山家家中での随一の実力者であり、独楽邸を建立したり三条西実隆と交流したりと資金力があるのは間違いない。しかし、だからといって、大名である畠山義総から受け継いだ莫大な遺産があると思われる義続にはかなわないと考えられるし、温井氏の軍資金がすべて天堂城に集中していたとも思えない。それなら、謙信の侵攻時の七尾城に埋蔵金話しがあった方がよっぽど信憑性があると思う。埋蔵金の話しが全くの嘘だとは言わないが、結局これも後世の人々が考えた逸話なのではないのか。
 

古文書

 投稿者:N  投稿日:2015年 3月 2日(月)19時44分29秒
返信・引用 編集済
  まだ未発見の古文書がどこかに潜んでいる可能性は有ると思っている。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150305-00000008-kobenext-l28

中古タンスから190万円 店で購入、女性が発見
神戸新聞NEXT 3月5日(木)16時7分配信

リサイクル店で購入した中古の家具の中から現金約190万円を発見した、と兵庫県宝塚市のアルバイト女性(36)が5日までに、宝塚署に届け出た。

 同署によると、女性が今月1日、西宮市内のリサイクル店で家具を購入し、自宅に持ち帰って、中を点検したところ、現金約190万円が入っていたという。女性はすぐに同署に届けた。

 同署の調べで、現金はリサイクル店のものではなく、家具を売った人物の履歴も残っていないという。

 同署は拾得物として受理し、持ち主を捜している。3カ月の保管期限を過ぎると、現金は全額女性が受け取ることになる。


http://www.cnn.co.jp/fringe/35061148.html

(CNN) オランダの美術館に持ち込まれた中国の仏像の内部に、1000年前の「即身仏」とみられる遺体が入っていたことが分かった。

仏像はオランダで売りに出され、買い取った個人収集家が同国のドレンツ美術館に持ち込んだ。

研究チームがCTスキャンで調べたところ、内臓のないミイラ化した遺体が、中国の文様を施した布の上に座った姿勢で入っていた。

同美術館の専門家は、「肺の組織の代わりに中国の文字が書かれた紙切れが詰められていた」と話す。

1000年前の中国の高僧が即身仏になったとみられる。同専門家は「そのまま200年間ほど寺に祭られ、14世紀ごろ仏像の形につくり変えられたのではないか」との見方を示す。

チームでは即身仏の出自をたどるため、DNA鑑定も依頼しているという。

仏像は現在、ハンガリーの首都ブダペストにある国立自然史博物館に収蔵されている。今後世界各地での展示が予定され、5月にはルクセンブルクへ移されることになっている。
 

瓦版

 投稿者:N  投稿日:2015年 2月 1日(日)13時00分40秒
返信・引用
  早稲田大学演劇博物館蔵の瓦版 安政6年(1859年)  

高岡出羽守の金の茶釜

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月27日(火)00時43分22秒
返信・引用
  丹後の伝説:51集
-橋立周辺の伝説-
http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn51.html#kinnotyagama

金の茶釜
  男山の城主、高岡出羽守は骨董好きで数々の品を愛蔵していたが、細川勢に攻められて落城の際、黄金の茶釜は八幡山に、黄金造りの鶏一双は北口の山中に埋め隠したまゝ掘り出す機会がなく、そのまゝ今日に及んでいるといわれている。一説には金の茶釜は後日ひそかさ取り出されたが、鶏一双は埋めに行った家来が戦歿して所在不明であるとも伝えられている。
府中小学校(宮津市)裏の畳一枚程の石橋裏には「朝日射し夕日射す、白玉椿その元に黄金千ばい、朱千ばい」と書いてあり、成相山中に黄金と朱の埋めてある道標であると伝えられている。宮津市旧城東村の八幡山にも黄金の埋めてある伝説があり、各地各国に残っている「黄金伝説」の一つであろうか。
明治の末年、岩屋(野田川町)では田の町直しに支那の古銭八貫匁を掘り出した例もある。
 

余部の黄金伝説(舞鶴市余部上)

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月27日(火)00時37分36秒
返信・引用
  http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn24.html#amarboogle5
余部の黄金伝説(舞鶴市余部上)
『舞鶴の民話3』に、

余部の赤城山(中舞鶴)

 舞鶴に軍港が設置されて中舞鶴町となった。余部下の字になったが、余部上には、奥山、才ヶ谷、下谷、谷口、後山、北安、スゴ、久田、前田、森ヶ奥、久田、前田、婿ヶ坪、土井の十六の小字があり小字余部上に統一しました。現在二十九の町内会があるが、大字名をつけているのは和田で、小字名は加津良と奥母だけです。
 婿ヶ坪は上村の中央の一等地の田のあるところで、むかし田植は、親しい人たちの「てんごり」を受けて、多数並んで手植えするのであるが、遅れて植え場のなくなることを「坪にはまる」という。初めてきたお嫁さんなどに、悪さに坪にはまるようにしむけて、当惑するさまも田植時の余興であった。
 余部の後山に、俗称清水尻というところがある。そこには、むかしから、どんなに旱天でもかれることない清水が湧き出し、村人ののどをうるおしていたという。その上の方の、丸山と呼んでいるところが、余部の赤城山である。そこは丁度、外輪山に囲まれ、火口中の小さい噴火山の跡のような地形している。
 この丸山には軍用金が埋蔵されていると伝えられている。埋蔵の地点は、

 長縄三把、縄三把
  朝日輝く、夕日は照らす
   三つ葉うつぎの下にある

 いつごろ、どれほど埋蔵されたか詳らかではない。群馬県赤城村の赤城山にも江戸城の軍用金千両箱が麓に埋められていると言われた、古図画によって発掘が行なわれたが、ついに発見することが出来なかったと報道されている。今でも探している人があると聞くが余部の赤城山にはほんとうにあるか、探してみたいものだ。
 

明光寺の埋蔵金(京丹後市網野町郷)

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月27日(火)00時25分54秒
返信・引用
  黄金埋蔵の伝承
http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn20.html#OOGONMAIZOL2

『ふるさとのむかしむかし』(網野・S60)に、

黄金埋蔵の伝承

 切畑区のうち、郷地区に近いあたりに、岩倉という小字があり、寺谷という谷があります。ここは今郷区にある岩倉山明光寺の元地だと言伝えています。
 何年か前、この附近で、田圃の整地を行った際、土器が出土し、中には黒色土の詰った土器を附近の川で洗ったところ、少し下流の川水が一面に朱色に染ったと言い伝えています。その後、この地区の基盤整理をした人の話によると、仏具と思われる陶器の破片が、数多く出土したとも聞いています。
 附近に白つつじの株と、石地蔵があるが、黄金の鳥の鳴いたという話も聞かず、附近を大がかりな整地されたこともないので、この地に何か宝物が埋められているかも知れないという老人もあるが、今の若い人たちは耳もかしません。
(原話 切畑区 長寿会代表)


 故立野啓蔵氏談。
字郷にはいつの頃からともしれず、こんな諺がロ伝えに伝えられています。
  いけば左 もどれば左 朝日夕日さす
   つはの木のもと 黄金千両 縄千束

 これだけでは、いっこうに意味がわからないのですが、実はこの地に戦いがあって 明光寺は亡ぼされてしまいました。その時に、財宝を土中に埋めこまれたのだといいます。この諺はその埋められた場所をこのような形で後世に残したものだといいますが、その場所を掘りあてた人は今に至るも無いとのことです。
 また切畑のある人の話では、諺はこれとすこしちがって
  岩倉地蔵から西へ一町 黄金千両
と伝えられているそうです。
 後藤宇右衛門談。私の聞いたのでは、右の諺の終りの方「縄千束」ではなく「わらび縄千束」と聞いています。
「往けば左、戻れば左」という土地はとこを差すのか、どうもよくわかりません。
「朝日 タ日さす」地とは、東西に開けた谷間か、あるいは高山でも指すのでしょうか、「つわの木」もようわかりませんが、榎だとも、柳の木だとも言われています。
 切畑ではこれを、「椿の木に黄金の鳥がひとつがい、金が七つぼ、七通り」と言う人もあって、この黄金の鳥が、幾人かの夢枕にあらわれて鳴いた夢を見たら掘り出してもよいと言い伝えています。
 その地はもと古いお寺のあった岩倉という土地だということですが、そのような夢を見た人もなく、掘ったこともありません。


郷(ごう)
京丹後市網野町郷
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/ktngc/go.html

『丹後国竹野郡誌』
明光寺  眞言宗にしで字郷にあり
 (同寺調文書) 本尊十一面観世音菩薩由緒不詳なるも口碑に人皇四十二代文武天皇の御宇行基菩薩諸国巡行の砌當山に留錫而観世音菩薩の尊像を自ら彫刻して峨々たる巌洞に安置し給ふ、其山を岩倉山と號す、其後年を経て日夜光明十方に照燿す里民驚き怪み其處を覓るに彼の観世音菩薩の眉間より放ち給ふ光明なることを覚知し仮りに草堂一宇を創建して明光寺と称す、霊験あらはれ且つ弘誓深如海の碑文虚しからず遠近の諸人道俗男女帰依渇仰し堂塔伽藍僧坊等悉く完備し亦時代の領主祈願所として田畑山林等の寄附有りて一旦は繁栄し国内屈指の霊場なりしが中古数回の兵乱に焼亡せられて古記文書類諸伽藍と共に烏有に帰したりと今の明光寺の西南八町許り隔てゝ岩倉山あり是即ち明光寺の舊跡にして爰に往古より五輪の塔ありしが往年今の明光寺に移して現存せり、其銘に曰く當山開白大寶二壬寅年九月廿五日開創地也爲?基菩薩四百回忌追善造立之久安二年二月二日願主仁寛敬白又曰ふ住昔岩倉山の東方一町を隔てたる山面に平等寺と云ふ真言宗の寺ありと、其鎮守たりし牛頭天王の社現存せり平等寺は天文以来の乱世に炎焼したり、其舊跡ほ明光寺の領地たりしも字切畑と山論起り今は切畑の所有となれり、正長元年快盛法印中興とあれ共今の明光寺を岩倉山より引移したるものか不詳、慶安二年京都嵯峨大覚寺門跡の末寺に属す、現今の状態 本堂七間五間庫裡六間三間半土蔵一鐘楼一間七分四方門一間七分一間境内反別八畝二拾一歩、境外所有地九反二十七歩、檀徒字郷全部
(宇川上山寺蔵年代目録)元禄十一年三月本堂再建、同寺中興第三世秀海法印ノ代也
  元禄十四年三月観世音ノ一千年忌チ営ム
  享保元年門再建
  明和二年庫裡再建


『網野町誌』
岩倉山明光寺 真言宗 郷
 本尊 十一面観世音菩薩
注 明光寺の本尊安置は三尊形式で、本尊は十一面観世音菩薩(立像)、脇士は毘抄門天(向かって右側、立像)、不動明王(向かって左側、立像)の二尊である。本尊は天保年間に修理を施した記録があり、この時に金箔を張り替えているが元禄一一年(一六九八)本堂落慶のときに新しく作ったものかどうかは不明である。しかし修理された前後の状況から判断して、岩倉の旧地から当寺が移転したときに移動させたものであろうと考えられている。
<由緒・伝承>
(同寺調文書)当山は文武天皇の御宇、大宝二年(七〇二)九月二五日行基菩薩が諸国を巡行の際に丹後国網野郷岩倉の里に留まり、観世音菩薩の尊像を自ら彫刻し峨々たる巌洞に安置した。その後、年を経て岩倉より日夜光明が十方に照り輝き、それをみた村民は驚き怪しみ周辺を注意してみると、そこは観世音菩薩の安置してある場所であった。目を細めてみると尊像の眉間から光明が燦然と輝いていたので、仮に草堂一宇を建立して明光寺と称したと伝えられている。
 この岩倉の故地は切畑地区と郷地区との境に位置する山岳地帯で、古くは巌蔵とも書かれ、そこは岩石を蔵し神が鎮座する険しい山地を意味するところであった。
 網野町郷字岩倉は宗教的意味では古墳時代(三~七世紀)には祭祀場所として、巨岩に神々が必要に応じて下界の人里近い岩場に降臨する場所、神と人とが共にいます聖地であった。此の地に「寺谷」というところがあり、そこに七堂伽藍僧坊などが立ち並び、霊験あらたかにして遠近を問わず多くの善男善女が集い仏法に帰依渇仰した。また、ときの領主も田畑山林などを寄付するなど、寺門は大いに興隆した。しかし、室町時代、戦国時代を経ての度重なる兵乱により伽藍は焼亡衰微し、当山を記録した古文書類、什宝などは散逸してしまった。
 岩倉から現在地の郷・寺ノ下に寺を移したのは江戸時代、一代宥範法印の世代と推測される。彼の師は元和二年(一六一六)に遷化、それ以前の住持は宥賢法印(元和元年八月八日没)、真海阿闍梨(慶長元年七月二一日投)が挙げられ、真海阿闍梨は岩倉山にあった明光寺の住持とみなすことができる。現在地での再建は慶長元年(一五九六)から元和二年(一六一六)の間の出来事のようであり、移転当初は庫裡のみの質素なものであったと思われる。元禄一一年(一六九八)に本堂を再建し、享保三年(一七一八)五月一九日平等院門落慶、明和二年(一七六五)庫裡再建をもって整備が完了した。しかし、昭和二年(一九二七)三月七日の奥丹後震災により秀圓法印は遷化、また堂宇も鐘楼を残し、他は全壊、本堂、庫裡は昭和七年に再建されたものである。なお弁天堂が同二六年(一九五一)に建立された。
なお、本堂の屋根瓦葺き替え修復工事が平成七年(一九九五)一二月に完成した。
注 当山先住墓地に石塔(五輪塔)がありそれには不明瞭ながら次の刻銘が認められる。
『當山関白大宝二王寅年九月二十五日開創地也 爲行基菩薩四百回忌追善造立之 久安二年二月二日 願主任寛敬白』
 これが、明光寺が行基菩薩を開基とする根拠となっている。この石塔は、当山が岩倉山の旧跡から現在地に移されたときのものとされているが、かなりな部分に修理(替石)の跡が認められる。
『竹野郡誌』には、〝(前略)又曰ふ往昔岩倉山の東方一町を隔てたる山面に平等寺と云ふ真言宗の寺ありと、其鎮守たりし牛頭天王の社現存せり平等寺は天文以来の乱世に炎焼したり、其旧跡は明光寺の領地たりしも字切畑と山論起り今は切畑の所有となれり、(後略)〟と記載されている。
<縁城寺年代記>
・大宝二王寅年九月二五日 郷村岩倉山明光寺建つ
・元禄一一戊寅年三月 岩倉山明光寺建つ(本堂再建?)同寺中興三世秀海法印の代なり
・元禄一四辛巳年三月 明光寺観世音の一千年忌を営む
・宝永元甲申年三月一日より七日まで明光寺法会
・正徳二壬辰年 明光寺秀雅と塔婆論あり
・正徳三癸巳年 成相寺吉祥寺院より来りて明光寺第五世法印を祐義とす
・享保三戊成年五月一九日 明光寺平等院門再建
・寛政九丁巳年三月二三日 明光寺鐘鋳
<旧『網野町史草稿』>
 明光寺は昔岩倉に本堂があり、郷小学校の近くに大門(小字大門)、仁王門(小字仁王門)があり、その間に平等院、十千坊など多くの寺坊を有し権勢をふるっていた一山地であったものと思われる。当寺は慶安二年(一六四九)に京都嵯峨大本山大覚寺門跡の末寺となった。縁城寺の故書には岩蔵山明光寺とあり、縁城寺分の末寺であったが〝大覚寺様御直末に差上申に付云々″とある。なお、昭和二一年(一九四六)に明光寺は高野山真言宗に所属した。
 

銭塚の埋蔵金(舞鶴市堂奥青路)

 投稿者:N  投稿日:2015年 1月27日(火)00時04分9秒
返信・引用
  丹後の伝説:20集
銭塚(舞鶴市堂奥青路)
http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn20.html#zenituka1

『倉梯村史』(昭8.坂本蜜之助)に、
青路の銭塚
 堂奥字青路に銭塚あり、普軍用金を埋めし所なりと傳ふも 今膳塚と言へり。と

『市史編纂だより』(昭48.11)
金のニワトリが鳴く
  (堂奥) 谷脇義平さん
 堂奥小字青路(青寺)の与保呂へ通ずる道路西側の山あいの、耕地の一部丘陵(丸山)に古墳と思われる所がある。古老の言い伝えによると、この丸山こそは前塚または銭塚ともいい、正月元旦には金のツバサのニワトリが鳴くとか言い残されている。
 付近の地主奥村勘治さん(故人)は存命中、この前塚付近は一部クワを入れられない所があると古くからいわれ、付近には青寺という寺もあったという。
 一説には昔、軍用金を埋めた所ともいわれている。おそらく戦国時代、乱世の代になにか埋めたものなのであろう。ボーリングしたらしい跡もあり、研究の余地が残されている。

『舞鶴の民話4』に、
青路の銭塚 (堂奥)
 祖母谷川の川岸を上る。溝尻あたりの川の水は清らかで日にあたりぴかぴか光る。立停って川面をみる。魚が泳いでいる。あゆではないだろうか。この川岸は今から五十年余前、夏休みで帰郷されていた棒高跳の大江選手と走った道だ。背の高い大江さんの大きなコンパスを私たち小学生は一生けん命おいかけたものだ。彼はそのころロスアンゼルスの大会で優勝し、世界的に棒高跳の大江として有名だったのだ。近所でもあり帰郷されたらいつも一緒に走っていたのだ。あまり口数もなく、笑顔の美しい人だった。祖母谷川のほぼ中央のあたりが堂奥である。左の山頂には一色氏の部将矢野備後守の居城であった矢野城跡がある。電話していた古老が待っていて家の応接室に通された。
 この辺りより少し下ったところが青路という字である。ここに銭塚(ぜんづかといっているが現在はぜにづかといっている)がある。小さい円い山で、軍用金をうずめたという。むかし豊臣秀吉が貨幣制度を確立し、金貨や銀貨を製造した。戦の報償として大判小判をふるまった。この舞鶴から若狭にかけても銀が産出していた。明智光秀も力をつくした徳川との戦に破れ、破れた武士が今後のことでかくしたのだろうか。どれだけあるのか、どこに埋れているのかわからない。
古老も友だちと掘りあてようと探したことがあるが、皆目わからなかった。土地の物ち主は、昔からあの山にはくわを入れてはいけないと先祖から伝えられていると言っておられる。町の方からもこの話を聞いてか、掘りにくる人もあった。しかし誰も掘り当てることがなかった。村の人の話では、正月に金の鶏がやってきて鳴いたのを聞いたという。どこかに埋蔵した地図があるに違いないが、どの家にも、家を改造したり、建て替えたりしたのでそのときに倉をつぶし、いらないものは燃やした。掘り当てるのはだれか、近くこのあたりに自動車道ができるそうだが、掘り返しているうちにみつかるかも知れない。
 

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