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日本は、ロシアの黄金22箱を返還するか

 投稿者:N  投稿日:2015年 7月11日(土)13時46分44秒
返信・引用
  日本は、ロシアの黄金22箱を返還するか
http://www.a-saida.jp/russ/zoloto/index.htm

1991年9月13日、ソヴェト連邦の政府機関紙イズヴェスチヤは、当時のソ連外務省外交研究所 シロトキン教授の署名入りで、このような見出しの記事を掲載した。
è  記事の全文とその日本語訳(http://www.a-saida.jp/russ/zoloto/izverstia.htm)

ロシア革命後の混乱の時期、ヴォルガ河中流域にある都市 カザンに保管されていたロシア国家の金準備は反革命派によって掠奪されたが、その後、赤軍の攻勢によって亡命を決意した反革命派の総帥 コルチャーク 提督と共に軍用列車に積み込まれて東方へ搬送された。 コルチャーク提督は途中のイルクーツク付近で、彼を警護してきた チェコスロヴァキア軍団 によって赤軍に引き渡されたが、この記事によれば、カザンから掠奪した金準備の一部である黄金22箱を、提督の側近ペトロフ将軍が偽装してチタから東支鉄道を経由して旧満洲のハルビンに持ち込み、他の勢力に黄金が奪われることを恐れて同地駐留の日本軍に一時保管を託したという。
この 「秘話」 は、ペトロフ将軍の子息で米国カリフォルニア州に居住するセルゲイ・ペトロフ氏が明らかにしたもので、満洲駐留の日本軍から日本国内に渡った黄金の返還交渉を日本政府と行うべきであると提言している。

このイズヴェスチヤ紙の記事が出ると、日本でも 新聞各紙・週刊誌・月刊誌 などが相次いでその内容を報じた。 しかし、「ロシアの黄金」 に関連した話題は、戦前 (昭和初期) には何度か新聞でも報道され、世間の噂になっていた。 それから数十年も経って、イズヴェスチヤ紙によってまたもや過去の亡霊が呼び起こされたのである。

従来 ロシア(ソ連)では、チェコスロヴァキア軍団 が自らの祖国帰還と引き換えに、拘束していたコルチャーク提督の身柄と共に 「カザンの黄金」 を赤軍側へ引き渡し、その結果、黄金はソヴェト共和国に戻されたものとされていた。

まずは、この黄金強奪事件について、「ソヴェト百科事典」 での解説をベースに、その顛末を見てみよう。
  è  黄金強奪事件の顛末(http://www.a-saida.jp/russ/zoloto/01.htm)
  è  1918-20年、シベリアの社会・政治情勢 (http://www.a-saida.jp/images/index.htm)

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関連資料の紹介

以下の資料はイズヴェスチヤ紙の記事が出た 1991年9月13日以降のものである。 (掠奪された黄金の重量・価格などはそれぞれ異なった数字が掲載されている。)

この事件に関する資料は、以下のもの以外にも存在するものと思われる。

(1) 日刊紙

新聞 (日刊紙)、例えば朝日新聞には、イズヴェスチヤ紙の記事が出た翌日 (1991年9月14日) の夕刊に、時事通信社の配信として、「ロマノフ王朝金塊、日本に渡る?」 の見出し記事が載った。 他紙では、読売新聞が 「ロシア王朝の金塊日本に? イズベスチヤ紙が秘話報道」、日本経済新聞が 「ロマノフ王朝の金塊日本に渡り消える ロシア共和国返還交渉も」、毎日新聞はその翌日 15日の朝刊で 「帝政ロシアの金塊 日本のどこかに 反革命派の提督 旧日本軍に託す ソ連紙報道 返還問題にも発展?」 などと報道しており、これらの見出しや記事の内容は大同小異である。

(2) 週刊誌

週刊誌では、 「週刊ポスト 1991年11月8日号」 に 大林高士氏が記事を載せている。 新聞記事を読んだだけでは解り難かった事件の背景がよく説明されている。

大林高士 『秘史発掘スクープ「ロマノフ王朝の金塊22箱は日本軍に渡った」』
週刊ポスト 1991年11月8日号(220~223ページ)、小学館

(3) 月刊誌

月刊誌では、「新潮45 1991年12月号」 に、多田井喜生氏による資料的価値の高い記事が掲載された。 関係者間で遣り取りされた電文、記録・資料の内容は興味深い。

多田井喜生(たたい・よしお) 『「ロマノフの黄金」日本上陸始末記』
新潮45 1991年12月号(148~162ページ)、新潮社

同氏による 『大陸に渡った円の興亡 (下)』(東洋経済新報社、1997年) の中の 「第八章 ロマノフ金貨日本上陸」 は、この記事の内容を増補・再編されたものと思われる。

(4) 書籍

プラウダ紙日本支局長を勤めたこともある I.A. ラティシェフ氏が、シベリア出兵前後の 「ロシアの黄金」 と日本との関わりについて、イズヴェスチヤ紙の報道から5年後の 1996年にロシア語で (ロシア向けに) 刊行した。 1997年にその日本語訳が出版されている。

Латышев И. А. "Как Япония похитила российское золото" М.: НТЦ "Техин-формпресс", 1996.;
ラティシェフ著、伊集院俊隆・井戸口博訳 『ロシア金塊の行方』 新読書社、1997年

この I.A. ラティシェフ氏の著作は電子化され、インターネット上で公開されている (ロシア語)。
http://rus-sky.com/history/library/latyshev/index.htm
 
 

平家の財宝

 投稿者:N  投稿日:2015年 7月 6日(月)17時01分50秒
返信・引用
  平家の財宝
http://senri.warbirds.jp/jasdf/17ura/ura03.html

福智山系の峰続きで、私の生まれた集落の端に「シロヤネ」と呼ばれる竹林に覆われた山
があります。山城の跡をしめす礎石や空堀などが今も残っています。古老の話を総合する
と次のようになります。

この城は源平の昔(保元三年)、平家の手によって築城されました。そのとき、杵島姫の命
(弁財天厳島神社)を祀り、居城を「弁財天」を戴して「弁天城」と名づけました。そして
城主として「永野新九郎貞恒」が派遣されました。

今でも、ベザイテン(弁財天)の地名があり、その近くには、ヤノドンやオコンドンなどの
屋号が残っています。ヤノドンは矢野殿の意味で、矢野伝左衛門宗冬という武将の屋敷跡
と言われ、オコンドンは右近殿のことで、右近少監友房の屋敷跡と言われています。

永野新九郎貞恒は、平家が壇ノ浦で滅亡したとき、その落人を導き匿くまったそうです。
その場所は平家屋敷と呼ぶ地名で今も残っています。

また彼の一族は、平家の滅亡によって武士を捨て、農民となって暮らすことになりました。
そして、平家の落人たちも氏素姓を捨て、武具を農具に変えて農民として生きる道を選び
ました。

私は先祖伝来のある口伝を親から受け継いでいます。それは平家の落人たちが氏素姓を隠
して農民となる際、何時の日か平家再興のために挙兵することを誓って、武具や軍資金に
するための財宝を隠匿したというのです。口伝はその場所を伝えるものです。

これは文章や図面ではなくて、一定条件の者に対して、先祖代々口伝として伝えられたも
のです。しかし、今考えるといろいろと疑問もあります。口伝だから代々伝えるうちに、
内容が多少変化しているのかも知れません。しかしながら、今となっては確かめようもあ
りません。

口伝の内容は財宝を隠匿した目印「白の八重椿」という言葉です。子供の頃から平家屋敷
やその周辺を探してみましたが見付かりませんでした。また「城の八重椿」の聞き違いか
とも思って、弁天城の城跡も探してみましたがやはり見つかりませんでした。長い年月で
枯れたのかも知れません。

しかし、最近になって別の解釈があるのではと思うようになりました。それは祖先の知識
でも、樹木が枯れることは承知のはずです。だから、「白の八重椿」の花に模ったものを
目印として、岩などに彫り込んだのではないかと思うようになりました。

私の郷里には地質の関係で深い洞窟が散在します。恐らくその洞窟の一部に財宝を隠して
部分的に塞ぐか洞窟そのものの入り口を塞ぎ、目印の木を植えたか、その木の花を模った
印を残したものと想像するようになりました。
 

「埋納銭」と「備蓄銭」

 投稿者:N  投稿日:2015年 7月 4日(土)13時58分48秒
返信・引用
  容器に入れられていない場合は、後日掘り出して使うには散逸や腐食等の事を考えると都合が悪く、「埋納銭」である可能性が高いように思う。
かめ等の容器に納められている場合は、どちらとも言いにくいと思う。

諏訪木遺跡出土埋蔵銭
http://www.kumagaya-bunkazai.jp/eventtheme/h210101.htm
 諏訪木遺跡(すわのきいせき)は、市内上之(かみの)地区に所在し、これまでに計6回の発掘調査が行われています。平成20年度に実施した諏訪木遺跡の発掘調査では、室町時代(約600年前)の「埋蔵銭」が発見されました。
 「埋蔵銭」とは、地中にお金(古銭)を埋めたもののことを呼びます。お金は97枚前後で1束になっており、数段重なった状態で発見されました。
 お金は中国から輸入された渡来銭(とらいせん)と思われ、現時点では詳しい枚数は分かりませんが、おそらく3,000~5,000枚はあると思われます。
 お金を埋めた理由については、戦乱の世に備えて一時的に地中に保管した「備蓄銭説」と神仏にお祈りをするために捧げた「埋納銭説」の2つの説が考えられていますが、今回の埋蔵銭がどちらに当てはまるかは現時点では不明です。ただし、当時上之地区の有力者であった成田氏に関連するものであることは間違いないと思われます。

防府市下右田出土の埋蔵銭
http://sunyama.soreccha.jp/e303521.html
中世(平安時代末~戦国時代)のころ、人々の間では多量の金銭を地中に埋める風習が流行っていました。ご存じ「埋蔵金」「埋蔵銭」です。読者の皆さんの中には、埋蔵金探しに夢をふくらませる方がいらっしゃるかもしれません。
 さて埋蔵銭には、実は二つの種類があります。一つは「埋納」、つまり地鎮、祈願などを目的に、金銭を神仏に捧げる場合。もう一つは「備蓄」、すなわち万一に備えて土地に埋め、必要に応じて掘り返し、使用する場合です。ちなみに過去の発掘事例からすると、後者の場合が多いようです。まだ銀行のない時代、土の中が最も信用のおける隠し場所だったのかもしれませんね。
 ところで山口市内では1月18日(金)から2月17日(日)の間、山口お宝展が開催されます。期間中、県立山口博物館では、約30年前に発掘された防府市下右田遺跡の埋蔵銭約3千点を展示します。皆様のご来観をお待ちしております。
県立山口博物館 考古学専門学芸員 幸泉満夫

中世の古銭2万枚 中津居館跡で大量出土
http://www.city.iwakuni.lg.jp/www/contents/1359502857702/html/common/51085597008.html
問い合わせ 文化財保護課 電話41-0452
平成24年12月11日、楠町の中津居館跡で大量の古銭が出土し、15日に説明会が開かれました。
中津居館跡は中世に岩国を治めた弘中氏が築いたとされる館の跡で、古銭は地下約1メートルに埋められたかめの中から発見されました。古銭の中央の穴にひもを通し、約100枚ずつ束ねた「さし銭」の状態で納められており、大半が中国からの輸入銭とみられます。古銭は五貫文(5千枚)単位でまとめられており、全体の数量は2万枚以上になるとみられ、周辺地域の歴史を示す貴重な史料となりました。
市教育委員会は、今後、埋納時期や銭の種類を調査し、随時報告していく予定です。なお、発掘作業は終了しており、古銭を見ることはできません。
※参考 16世紀末の文献には、米一斗一升(約15キログラム)が100文とあります。
 

上杉謙信の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2015年 6月18日(木)19時40分11秒
返信・引用
  上杉謙信ゆかりの埋蔵金伝説について
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000025709

1.上杉謙信ゆかりの埋蔵金伝説について
上杉謙信関係の伝記、新潟県の伝説集、郷土雑誌『頸城文化』等を調査し、上杉謙信ゆかりの埋蔵金伝説について、次の二件の情報を得ました。
(1)『上越ふるさと事典』(上越ふるさと研究会 1988 当館請求記号:N232-127)  p23「謙信にまつわる伝説二題 その二<埋蔵金の謎>」には「謙信は、佐渡の金山、奥只見の銀山から算出した多くの金・銀をたくわえてきた。これらの財宝は、「春日山の朝日のちゃっかり、夕日のちゃっかりさすところ、うるし三駄、朱三駄」と歌に伝えられているところに埋められていると言う。そして、その場所は、「ツツジ」が茂っている所でもあると言われている。」
(2)『鉢ケ峯城-春日山調査研究』(山田正男著 北越出版 1989 N232-10)p89「埋蔵金」には「とにかく噂の埋蔵金がどこかにあるのではなかろうと言われる。御屋敷、長池山の出土品の焼物には、中国の物が非常に多いと言われ、ツツジあり朝日夕日の射すところにあるという。」

2.春日山城に残された貯蔵金について
さらに、春日山城に残された貯蔵金が存在したことが、さまざまの資料に記述されています。 『戦国おもしろ読本』(桑田忠親著 広済堂 1982 当館請求記号:N299-タ)p168~169「謙信の資金源は?」には、「俗説によると謙信が大活躍できたのは、その陰に佐渡の金山を宝庫として抱えていたせいだという。たしかに、謙信は越後の春日山城に莫大な金銀を貯蔵していた。『伊佐早文書』所収の「春日山城内惣在金目録」によると、家臣や府内の町人に貸し付けた金、買入れた金、運上金、贈答金など、合わせて千二十六枚一両三分一朱ほど、貯蔵用のものが、千五百八十八両三分二朱あったことがわかる。…井上氏によれば佐渡の金山の算出額が上昇したのは、慶長七年(一六〇二)にこれが徳川氏の直轄領となってからのことであって、謙信が佐渡以上に金銀の運上をえたのは、越後の金山であった。この越後の金山というのは、岩船郡の高根・海浦鉱山であり、また、北魚沼郡と会津との国境に近い上田銀山、それから、越中の新川郡の松倉金山・河原波金山・吉野銀山・下田銀山などであろうとのことである。」と書かれています。 参考文献となった井上鋭夫氏の『謙信と信玄』(至文堂 1964 N289-U47)p199~205「鉱山の開発、貨幣の鋳造」にはさらに詳しい記述があり、「目録」の本文も載っています。 『上杉謙信』(花ケ前盛明著 新人物往来社 1995 N289.1-U47)p65~67「経済力」では、「越後の米、金銀、青苧」に財力の基礎を求めています。以下に関連資料を記します。

(伝記資料から)
(1)『戦国おもしろ読本』(前出)
(2)『謙信と信玄』(前出)
(3)『上杉謙信』(前出)
(4)『NHK歴史への招待 26』(日本放送出版協会 1983 N289-ウ) 1988発行の新コンパクト版もあり。  p66~88「上杉謙信の軍資金(南条範夫)」 最も詳しい記述。「戦国時代の金」(葉賀七三男)  「知られざる謙信の横顔」(赤沢計真)「戦国武将財力番付」(小和田哲夫)」含む。
(5)『上杉謙信-物語と史蹟をたずねて-』(八尋舜右 成美堂出版 1976 N289-U47)  p139~144「飢民」 114pに「謙信の蓄財」。
(6)『信玄と謙信-その人間と経営-』(安藤英男著 すずき出版 1988 N289.1-U47)  p141~144「越後は米どころ 金山・銀山の開発」
(7)『上杉謙信-戦国最強武将破竹の戦略-』(学研 1988 N289.1-U47)  p126~133「大軍事費を支えた黄金の秘密(池亨)」 図表、グラフで分析。
(8)『上杉謙信伝』(布施秀治著 謙信文庫 1917 N289-U47) 1968歴史図書社刊の復刻版あり。  p581~585「産業の奨勧」
(9)『図説上杉謙信と上杉鷹山』(花ケ前盛明、横山昭男著 河出書房新社 1999 N289.1-U47)  p31~32「上杉謙信の経済力」
(10)『定本上杉謙信』(池亨、矢田俊文編 高志書院 2000 N289.1-U47)  p354~356「金山・銀山」
(11)『上杉謙信とその風土』(室岡博著 考古堂 1983 N289-ウ)  p152~145「産業振興、越後上布、佐渡と金山、馬政、海岸の塩・魚・砂鉄」
(12)『上杉謙信のすべて』(渡辺慶一編 新人物往来社 1987 N289-ウ)  p27~29「豊富な経済力」(地域資料から)
(13)『続・越佐歴史物語』(横山貞裕、横山秀樹著 新潟日報事業社 1980 N200-9-2)  p93~100「越座小判と西三川金山」
(14)『新潟県の不思議事典』(花ケ前盛明著 新人物往来社 1998 N2*00-H27)  p25~26「上杉謙信大遠征の経済力は何か」
(15)『図説佐渡島歴史散歩』(児玉信雄ほか編 河出書房新社 1998 N2*40-Ko18)  p38~42「佐渡・西三川砂金山(小菅徹也)」
(16)『図説佐渡の歴史』(郷土出版 1998 N2*40-N725)  p113~114「上杉氏の金山政策」
(17)『図説上越の歴史』(郷土出版 1998 N2*40-N725)  p112~113「謙信の遺産目録」
(18)『わが町の歴史上越』(渡辺慶一著 文一総合出版 1982 N232-38)  p26~29「黄金と青苧」
 

大木以外の植物・・・

 投稿者:N  投稿日:2015年 6月18日(木)15時52分13秒
返信・引用
  大木以外の植物や比較的簡単に人力で動かせる石は、目印としては・・・

氷見の幻島(まぼろしとう)―布勢の円山―
http://toyamanoteiou.blog102.fc2.com/blog-entry-128.html
ここに於いて栗の木3本見れば下に金が埋めてある
という埋蔵金伝説も残されている。埋蔵金伝説には“三つ葉うつ木”を含む歌が伝わっていることが多いので、“栗の木3本”も同様のものかと思われる。「万葉集」に見られる“三栗(みつぐり)の-”は、イガの中に3つの実が詰まっていることから“中(なか)”という詞を導く枕詞になっていると解釈されている。これを踏まえると上記の伝説は特定の場所を示しているわけではないことがわかる。
 大事な財産を埋めた場所の目印に枯れたり、伐採されたりして見失うリスクのある植物を使ったりはしないだろうから、あくまで伝説だろう。「越中伝説集」には、付近に埋葬者不明の十三塚や十三入江という墳墓があると記しているし、尾根を利用した古墳が見受けられるが、埋蔵金伝説は古墳に付随することが多いため、円山の場合も同種と見ることができる。
 

きっとまだ地中には何かが埋まっている

 投稿者:N  投稿日:2015年 6月 1日(月)08時28分19秒
返信・引用
  淡路島で銅鐸7個発見 集積の砂山で 最古級含む  2015年5月20日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015052002000130.html

 兵庫県南あわじ市(淡路島)にある石材関連会社の砂山から、古代の青銅祭器「銅鐸(どうたく)」が七個(弥生時代前期-中期)見つかり、県教育委員会などが十九日、発表した。うち一個は紀元前二世紀ごろの最古級で、内部は長期間鳴らされてかなりすり減っていたほか、古代中国で占いを示す「王」と見える符号が鋳出された銅鐸もあった。農耕などの祭祀(さいし)に使われたという初期の銅鐸の実態を解明する史料となりそうだ。専門家からは「数十年に一度の大発見」との声も出ている。

 県教委によると、破損した状態で見つかった一個を除く三組六個は、大きい銅鐸に小さい銅鐸をはめ込んだ「入れ子」の状態だった。加茂岩倉銅鐸(島根県雲南市)と同じ方法で、埋納状態を復元する手掛かりになるという。

 銅鐸は一、二個で見つかることが多く、七個は、加茂岩倉銅鐸の三十九個、三カ所から計二十四個が見つかった大岩山銅鐸(滋賀県野洲市)、桜ケ丘銅鐸(神戸市)の十四個などに次ぐという。

 最古級のものは菱環鈕(りょうかんちゅう)式といい、国内では他には十一個しか見つかっていない。重さは約二キロだった。他六個は外縁付鈕(がいえんつきちゅう)式という二番目に古いタイプで、計測可能な銅鐸の高さは二十二~三十二センチで小型の部類だった。

 七個はいずれも「聞く銅鐸」という古いタイプで、うち三個からは、音を鳴らすため内部につり下げた青銅製の棒「舌(ぜつ)」が三本見つかった。銅鐸と舌が一緒に見つかるのも珍しい。舌も、すり減っており、長期間祭りなどで使われたことが分かるという。


 七個は、四月に南あわじ市の石材関連会社の砂山から見つかった。銅鐸は市内の松帆(まつほ)地区の海岸部から砂ごと運ばれてきており、正確な出土地は不明。七個は松帆銅鐸と名付けられた。

 県教委によると、今回の七個を含めると、銅鐸は全国で五百三十個以上。兵庫県は六十八個となり全国最多。淡路島では二十一個で、南あわじ市松帆古津路で銅剣十四本も見つかるなど青銅器が多く分布した場所として知られている。

兵庫県の遺跡・遺物数の全国的な位置
http://www.hyogo-c.ed.jp/~shabun-bo/gyouseisituhp/top/kihonkousou/6(4).pdf
 

床下は定番の隠し場所

 投稿者:N  投稿日:2015年 5月27日(水)05時47分27秒
返信・引用
  http://www.viralnova.com/time-capsule-in-tennessee/#.

This Amazing Discovery In A Farmhouse Is Not What Anyone Expected

A Reddit user in rural Tennessee, known here by his username of Evilenglish, made a discovery that most of us only dream about. While cleaning his grandparents' house (where, ironically, he spent many a childhood day having Treasure Island read to him), he uncovered a safe buried in the floor of a closet.

The challenge was to get it open. Evilenglish tried a few possible combinations, such as birthdays and social security numbers, but none worked. He eventually hunted down a locksmith who could help.
 

案外こんな話の方が・・・

 投稿者:N  投稿日:2015年 5月22日(金)10時58分40秒
返信・引用
  案外こんな話の方が信ぴょう性が高いかも知れません。

http://blogs.yahoo.co.jp/xiuwa3001/17051764.html
基地にある埋蔵金 3.2012/12/4(火) 午前 3:07沖縄沖縄県..
今から約30年前の沖縄で、埋もれた財宝のことが話題になりました。
嘉手納町、沖縄市、北谷町の三つの市町村にまたがり、しかも嘉手納町の83%の面積を占め、日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍もある、極東最大の米軍基地、Kadena Air Base=嘉手納空軍基地。。
そのカデナ飛行場に財宝が埋もれているというのです。
戦前の旧越来(ごえく)村(現在、沖縄市)は畑の多い農村でした。
その村で5~6人の使用人を雇い、400坪の屋敷を構えていた金持ちがいました。
米軍上陸前夜、昭和20年(1945年)に多大な財宝を自宅の裏庭に埋めたといいます。
財宝の中身は、戦前の大型ンスガーミー(みそがめ)に入った金貨。
30年前当時で、年収が7千万~8千万円もあるA家が、戦時中に財宝を埋めたといわれていますが、実際にそれを手伝ったという証言があります。
埋蔵に携わった人の話によると、埋めた場所は現在のカデナ飛行場の第三ゲート近くの滑走路付近、戦前は宇久田(うくだ)と大工廻(だくじゃく)という部落(集落)があったところで、そこにA家の財宝が埋められたといいます。
もしかしたら、現在も財宝が埋もれたままになっているかもしれません。。
現在の処、カデナ基地は移設、撤去、縮小などの話は一切出てきていません。
半永久的に続く可能性があります。。残念ですね。。
ただ、万が一にも普天間基地は動く可能性もありますので、戦前部落があった処や聖地であったところなどに、何か財宝が埋まっているかも?
 

歴史は捏造されたり誤解されている事が多いように思う。

 投稿者:N  投稿日:2015年 5月17日(日)17時55分46秒
返信・引用
  信長、家康、光秀の「歴史」は、すべて秀吉の捏造だった!嘘だらけの「本能寺の変」
Business Journal 5月14日(木)6時1分配信

 明智光秀の子孫が書いた『本能寺の変431年目の真実』(文芸社文庫)が、発売から1年4カ月が経過してもなお売れ続け、27万部を突破する驚異的な売れ行きを見せている。

 著者は明智憲三郎氏。もともとは三菱電機のシステムエンジニアで、いわゆるプロの学者ではないが、先祖の名誉回復を願う子孫が感情論で書いた本ではなく、国内のみならず海外も含めた膨大な数の文献に当たり、導き出した結論は、これまでの定説を根底から覆すものとなっている。

 約50年間に及ぶ研究の成果を『本能寺の変四二七年目の真実』(プレジデント社)にしたため、2009年に発刊。この本も当時かなり話題になったが、その後さらに研究を重ねて加筆・修正したものが本書である。

 紙面の関係上、定説と異なる点をすべて網羅することはできないが、大雑把にいえば「光秀の出自も違えば、謀叛の動機も怨恨ではないし、徳川家康も謀叛と無関係どころか実は共犯で、秀吉も事前に謀叛の計画を知っていたから中国大返しも実は神業でもなんでもなかった」というものだ。

 定説は時の権力者・秀吉が、自分に都合の良いストーリーを組み立て、それに合わせてさまざまな文献の書き換えも行われ、利害が一致した家康もそのストーリーに乗り、後の時代に尾ひれがついて出来上がったものと考えられる。そして後世の学者も、なぜかそこへ乗ってしまったというのである。

●絶大だったNHK大河ドラマのスリコミ効果

 なにしろ戦国時代から江戸幕府開闢までの時代は人気が高い。織田信長が天下統一を目前にして本能寺の変で逝き、いったんは天下を取った豊臣秀吉が統一を目前にして逝き、徳川家康が江戸幕府を開くまでのこの時代を扱った時代劇はヒットする確率が高く、NHK大河ドラマのみならず、テレビ東京の正月時代劇などでも繰り返し取り上げられてきた。

 特に現在放送中の『花燃ゆ』で54作目となる大河では、信長、秀吉、家康の3人にスポットを当てた作品が『太閤記』(1965年放送)、『国盗り物語』(73年)、『おんな太閤記』(81年)、『徳川家康』(83年)、『信長KING OF ZIPANGU』(92年)、『秀吉』(96年)と、全部で6作もあるうえ、この3人の天下取りを別の主人公の目で捉えたものや、同時代に生きた他の戦国武将をテーマにしたものなどが12作。54作中合計18作、全体の3割以上がこの時代だ。ちなみに次に多いのが幕末~明治維新もので11作、日本人が大好きな「忠臣蔵」関連は4作ある。

 最近でこそ視聴率低迷に悩む大河だが、かつては驚異的な高視聴率を誇り、国民の歴史認識へのスリコミ効果は絶大だった。筆者も子供の頃は大河のストーリーこそが歴史的に正しい事実だと思い込んでいた。実際、ろくに本も読まなかった筆者の日本史の知識は、中学を卒業するくらいまで、ほぼ大河によって形成され、物語中に登場する架空の人物まで実在の人物だと信じていたくらいだ。

 明智氏も、本能寺の変をめぐる定説を、現代に生きる日本人に徹底的にスリこんだのは『新書太閤記』(吉川英治)と『国盗り物語』(司馬遼太郎)であり、この2作品を原作として制作された大河ドラマだと本書中で指摘している。なにしろ『太閤記』は平均31%、最高39%、『国盗り物語』は平均22%、最高29%もの高視聴率を獲得していたのだから当然だろう。

 62年生まれの筆者の歴史観もまた、まさにこの2作品によって構築されている。『太閤記』で秀吉を演じた若き日の緒形拳の姿や、信長を演じた高橋幸治の“棒読みなのに怖いセリフ回し”などを記憶している程度だが、『国盗り物語』放送時は小学校5年生となっており、出演者やストーリーなどの記憶は極めて鮮明だ。

 例えば、光秀謀叛の動機は、定説では怨恨だ。インテリでナイーブな光秀が、粗暴でキレやすい信長からのモラハラやパワハラに悩まされた挙げ句の行動であり、企ては突発的で無計画、しかも単独犯行だった、というものだ。

 光秀の役は『太閤記』では悪役然とした佐藤慶が演じたが、『国盗り物語』では当時31歳の近藤正臣である。当時の近藤はイケメン路線のど真ん中。まさに定説のイメージ通りだった。松坂慶子が演じた信長の正室濃姫も、光秀のいとこであり淡い初恋相手という描かれ方だ。また定説では濃姫の口利きで光秀は信長の家臣になったといわれているが、明智氏はそういう事実もないと語る。信長がキレやすく粗暴だったというのも秀吉の創作だというから驚きだ。

●なかなか覆せない定説

 この2作品に限らず、大河はどれも原作者自体が歴史小説の第一人者である。時代考証にもそれなりの肩書の人が就いて制作されているので、架空の人物が登場することはあっても、学説上の定説から大きく逸脱することはない。

 その点こそが、まさに明智氏が問題視している点で、本能寺の変をめぐる定説の元になっているのは江戸時代になって書かれた「軍記物」であって、その「軍記物」のネタ元は秀吉が書かせたPR誌なのだ。そのPR誌に書かれている事実が、本能寺の変が起きた前後の時代の文献に書かれている事実や、当時日本に来ていた宣教師が母国で残した記録と符合しないのだという。

 例えば、信長が実は中国制圧を考えていたことが、イエズス会の宣教師が書き残した文献に記されているし、家康が謀叛の共犯者だったということも、イスパニア商人が書き残した文献には記述があるという。

 全般に、複数の文献と定説が符合しない点から事実を類推する手法が取られているので、部分的には妄想だと批判する声もあるようだが、この本を読んだ多くの人にとって「すとんと腹に落ちる」類推だからこそ、長期間にわたって驚異的な売り上げを記録し、著者の元には全国から講演依頼が殺到するのだろう。だが、それでも世間一般の認識を変えるには至っていない。

 少し前まで放送されていたゲームアプリ『モンスターストライク』(ミクシィ)のテレビCMにおける信長と光秀の関係も、定説通りだ。明智氏が光秀の末裔であることが、かえって研究成果の評価にバイアスをかけているということはないのだろうかという疑問も湧く。

 明智氏の研究成果を検証する歴史小説家が現れ、明智説を踏襲する小説が生まれ、それが大河で放送されて、ようやく明智説は名実ともに市民権を得るのかもしれない。
 

北京原人2

 投稿者:N  投稿日:2015年 3月29日(日)21時32分28秒
返信・引用
  >故周恩来総理はかつて「中国人がアメリカ人に北京原人の化石の保管を頼んだが、アメリカ人がそれを落としてしまった。良識ある科学者ならばそれを探し出して返還するべきである」と言ったことがある。


China ABC----China Radio International
http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter14/chapter140404.htm
北京原人化石の行方不明の謎
世界に知られる北京原人の化石は、それが行方不明になる前は、ずっと北京協和病院の金庫に保管されていた。

太平洋戦争が勃発した直後、化石の研究に従事する人類学の学者である魏敦瑞は協和病院が保管場所としてもう安全でないと判断し、北京原人の化石を米国に移送することを提案した。1941年12月に日本海軍のハワイ真珠湾攻撃を前に、北京協和病院の博文総務課長が「化石を箱詰めにせよ」という命令を受けて、北京原人の頭蓋骨5枚、頭骨の破片15枚、下顎骨14枚、鎖骨、大腿骨、上腕骨、牙歯など合計147枚の化石をレンズ拭き用の紙と綿で巻き、木箱に詰め中国駐在の米国大使館に運んだ。しかし、その後北京原人の化石が行方不明になり、今になってもどこにあるか分からない。

北京原人の化石はトランクに詰められて秦皇島からハリソン郵船に載せられ、米国に運ばれる途中沈没したという説があり、その郵船が日本海軍に占領され、化石も日本海軍に奪われたという説もある。

第二次世界大戦後、米軍は日本で北京原人の化石を探したが、見つからなかった。1972年に、米国の富豪であるジェニュース氏が懸賞をかけて北京原人の化石を探し求め、手がかりを多く入手したが、失敗に終わった。1970年に、ニューヨークに住むある女性が北京原人の化石を探していた科学者クリストフ氏に電話をかけ、その女性の夫が生前北京原人の化石を保管していたと伝えた。ハーバード大学のある教授はこの女性が提供した写真を鑑定し、行方不明になった北京原人の化石だと判明したが、その後、女性との連絡が途絶えた。1991年に、米海軍の仕官である歴史学者のブロン氏は北京原人の化石問題で責任を問われたフリー博士から、北京原人の化石を保管している女性とまた連絡が取れたと書いた手紙を受け取ったが、1992年の秋にフリー博士も死去した。

1970年に、ニューヨークタイムズの紙面にはウィレンムという医師が広告を掲載し、北京原人が三ヶ所のいずれか(天津のある友人の家、天津のフランス系のパスト研究室、天津のスイス人が経営する外国商社)に保管されているかもしれないと発表した。これを受けて、天津市公安局が「極秘案件」の専門調査グループを作って取り調べたが、見つからなかった。このほど、中国の人類学者の周国興が長年の調査で、真珠湾攻撃を前に中国駐在の米軍海兵隊本部と米国大使館を結ぶ玄関の守備に当たる警備員は二人が一つの箱を大使館の裏庭に埋めたことを目撃したという新しい手がかりを入手したが、埋蔵場所の上に建物ができ発掘が不可能になった。

北京原人の化石は数十年間行方不明のままで、今になってもどこにあるか分からない。故周恩来総理はかつて「中国人がアメリカ人に北京原人の化石の保管を頼んだが、アメリカ人がそれを落としてしまった。良識ある科学者ならばそれを探し出して返還するべきである」と言ったことがある。


北京観光ウェブサイト > 北京で遊ぶ > 北京ストーリー
http://japan.visitbeijing.com.cn/play/legends/n214782468.shtml
北京原人の化石 行方不明の謎 2012-11-28
 

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