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白い藤の花の下に眠る埋蔵金(岐阜県大野郡白川村)

 投稿者:N  投稿日:2015年 8月16日(日)02時06分46秒
返信・引用
  白川郷のむかし話

白い藤の花の下に眠る埋蔵金 更新日:2013年06月10日
http://shirakawa-go.org/kankou/mukashibanashi/mukashi12/1833/

今、仙蔵(せんぞう)は、盃(さかずき)にうつった自分の顔を、静かにじっとながめています。自分の顔のどこがおもしろいのか、さかもりが始まってからも、長い間盃から目をはなそうとはしません。大きな熊のように骨太(ほねぶと)のがんじょうなからだ。真っ黒に日焼けした荒々(あらあら)しい顔。その口からさみしそうにひとつ、深いため息がもれました。

「頭(かしら)、今日はとりわけでけえ仕事をしたというのによ。いったいぜんたい何をしょげた顔をしとるんじゃい! まあ、いっぱい」

頭とよばれたのは仙蔵。信濃(しなの)*1のあちらこちらを荒しまわり金を持ってそうな屋敷(やしき)から宝を根こそぎうばって火をつけ、平気で人を殺(ころ)すおそろしい盗賊(とうぞく)の親分なのです。

*1:[信濃]現在の長野県。

徳川(とくがわ)の幕府(ばくふ)がさかえた時代には、侍(さむらい)がいばり、農民は年貢(ねんぐ)をおさめなければなりませんでした。ききんの年がつづくと、殿様にさし出す米が満足につくれず、ひえやあわが食べられればいいほうで、草や木の実でうえをしのぐこともありました。かわいいわが子を売った金で生きながらえなければならなかった大変苦しいころのことです。仙蔵も幼(おさな)いころ、食いぶちをへらすために親にすてられました。

手下に酒をつがれながら仙蔵は、今日の仕事を思い出しました。

「おっかあを殺すな。おとうを殺すな、人でなし!・・・」

盗(ぬす)みに入った家で、七、八才の幼くかわいい女の子が、ぎらぎらとした目でにらみつけた姿が、仙蔵のまぶたにやきついてはなれません。仙蔵はじっと何やら考えていましたが、やがて決心したようにつぶやきました。

「おれもそろそろしおどきだわい。これまで悪事(あくじ)のかぎりをつくしてきたが、もうやめだ。どこか遠くへ行って、まっとうなくらしがしたいものよ」

心に決めた仙蔵は、手下のなかでもいちばん信頼(しんらい)ができる鬼兵衛(きへい)だけに自分の思いを話、これまでかせいだ金をたっぷり袋にしまって旅にでました。

塩商人(しおしょうにん)にばけてはいるものの、仲間(なかま)から逃げなければならないので、けわしい山や谷をえらんで進まなければなりません。いつ盗賊の仲間たちが追いかけてくるかわかりません。馬に積んだ袋の重いこと重いこと。気が気ではありません。

野麦峠(のむぎとうげ)をやっとで越(こ)え、ぐねぐねと曲がりくねった天生峠(あもうとうげ)にさしかかりました。必死(ひっし)の思いで足を引きずり、さて一息(ひといき)つこうとしたとき、つれの鬼兵衛が足をふみはずし、深い谷底に落ちて命をなくしてしまいました。

ひとりになった仙蔵は、荻町(おぎまち)、保木脇(ほきわき)を通り平瀬に着くと、もう足はくたくたでこれ以上一歩も歩くことができなくなりました。

「しかたがない。ここらあたりで泊まるとするか」

一晩のつもりが、平瀬の人たちの親切なふるまいと、ここまで来れば手下どもも追ってはこないだろうという安心した気持ちになり、二晩、三晩とたつうちに、とうとうお宮の上の方に小屋を建てて住みつくようになりました。

「おれは、もとは盗賊じゃ。むかしの罪をつぐなうためにも、はやく平瀬の人たちとなかよくなり、少しでも役に立つようにならんと・・・」

と心に決めて、いっしょうけんめいに働きました。

仕事は鍛冶屋(かじや)です。盗賊の頭でもあったくらいですから、何でもできます。腕(うで)もたしかです。はじめはめずらしがっていた村人も、仙蔵のまじめな働きぶりを見て、だんだん気をゆるすようになりました。

「仙蔵さよ。ながもちするかまをこさえてくれんかよ」

「くわのぐあいが悪くてなあ。ちょっとなおしてくりょ」

仙蔵をたよってくる人たちが、日ましにふえてきました。

親しく話をかわすうちに、仙蔵を信じて相談事(そうだんごと)を持ち込む人もありました。中でも多いのが、生活がえらくて食うのがやっとやという話です。村人の苦しいくらしの様子を見るうちに、

「銭(ぜに)がなかったら、おりが貸(か)してやるでな。困ったときはおたがいさまや。利子(りし)もとらんし、いつ返してくれてもええが、貸した分はきっちりもらわんならんぞ」

と、つい口に出してしまいました。

その日からは、「仙蔵は腕もたしかじゃが、まずしいものに金を貸してくれる」といううわさが広まり、ますます仙蔵の人気は高まっていきました。村人たちは、仙蔵のことをいつとはなく「銭貸しの銭蔵(ぜにぞう)」と呼ぶようになりました。仙蔵も悪い気はしなくなり、たよってくる者に気前よく銭を貸してあげました。

仙蔵が金を貸してやるとき、いつもきまった言葉を口にしました。

「ここにかけてあるまんまが食えるようになるまで待っとってくりょ。そしたら金をわたすでな」

こう言うと、すっと外に出て姿を消してしまうのです。おおかたの村人は、金を貸してもらえればいいのですから、仙蔵の言う通り待っていて金を借りていきましたが、中には、あやしいと思って仙蔵の後をこっそりついて行く者もおりました。

ところが、仙蔵の足はなみの速さではありません。風のように姿をくらますので、つい見失ってしまうのです。

さて、こうして仙蔵がすっかり平瀬の土地の者としてくらすようになってから何年かたちました。ある日、一日の鍛冶屋の仕事を終わって床につこうとしました。とその時、「ドンドン、ドドン、ドドン、ドンドン・・・」入口の戸をはげしくたたく音がしました。

「なにごとじゃ・・・」

仙蔵はびっくりして土間におりてみると、

「仙蔵! ついにみつけたぞ! はやいとこ、ここを開けやがれ。仲間の金はどこへやった」

という怒鳴(どな)り声が聞こえてくるではありませんか。むかしの盗賊の仲間たちです。平和なくらしになれてしまった仙蔵は、いっしゅん体がこおってしまいました。しかし、さすがにもと盗賊の頭。今にもやぶってきそうないきおいに背を向け、刀だけをすばやく手に持ったかと思うと、反対側の窓をつきやぶり、家の外へ飛び出しました。

死にものぐるいで逃げる仙蔵。逃がすものかと目をつり上げて必死で追いかける盗賊。仙蔵は矢のように走ります。ひえの穂(ほ)をひょいと越え、小川をひととび、草木が波打つ。

何が何でもとっつかまえようと迫(せま)る盗賊たち。敵は七人、こちらは一人。仙蔵が息切れして立ち止まった時、ヒュッと飛んできた毒針(どくばり)が首すじにつきささりました。それでも力をふりしごって追手(おって)と刀をまじえましたが、とうとう仙蔵は力つきてとらえられてしまいました。

「仙蔵、金のありかはどこだ! 言え! 言わぬなら命はないぞ!」

なぐられたり、足げりにされておどされましたが、仙蔵はがんとして口をわらなかったため、ついに命をおとしてしまいました。

追手の盗賊たちは、仙蔵の家の中をすみからすみまでさがしましたが、金はどこにも見つかりません。盗賊たちはとうとうあきらめて、引き上げてしまいました。

仙蔵が命をかけてまで、金のありかを教えなかったのにはわけがあったのです。いつかは追手に見つかって、自分の最後がくるのではないかと気がかりだった仙蔵は、特に仲のよい村人にこんな言葉を残しておいたのです。

「おりは、平瀬に住みつく前にひともうけをして、たんまり金を持っておった。おりがもし、何かで死ぬようなことがあったら、白い藤の花を見つけて、その下を掘(ほ)ってみよ。そこに金があるはずじゃ。村のために役立つくらいはある」

白い藤の花、その下に大金が眠っている。そんな話が村人たちに伝わって、白い藤の花をさがしてその下を掘ってみる人もいましたが、いまだに金は見つかっていないようです。

平瀬の常徳寺(じょうとくじ)を訪れると、そこには「銭蔵の跡(ぜにぞうのあと)」と記された札がひっそりと立っています。

おわり
 
 

埋蔵金伝説あれこれ(兵庫県内)

 投稿者:N  投稿日:2015年 8月16日(日)01時58分3秒
返信・引用
  神戸・兵庫の郷土史Web研究館(郷土史の談話40)
埋蔵金伝説あれこれ(兵庫県内)
http://kdskenkyu.saloon.jp/tale40mai.htm

兵庫県内の埋蔵金発見例
① 洲本の下内膳遺跡から昭和初期に、学校用地造成中に大壷に入った古銭約1万3千枚。
② 宝塚の長尾山から昭和初期に、畑開墾中に和同開珎など古銭42枚。
③ 明治末期、宝塚の安倉から畑開墾中に、天正大判など詰まった大壷発見。
④ 同じく、宝塚の堂坂遺跡から、学校整備中に5つの壷、約20万枚という大量の古銭発見。
⑤ 宍粟市安富の寺屋敷跡から、古備前の壷を発見、古銭約5万枚。

神戸
・会下山二本松の宝塚(神戸市兵庫区会下山)
 昔、会下山の西北に続く頓田山に近年まで松の大木が2本立っていた(会下山二本松)が、法隆寺という寺の経塚の跡との伝承。ここに、高貴な人を金銀財宝とともに葬った宝塚で、「夢野村(地元)が衰えて家三軒となれば宝物を掘って村を復興せよ」と伝わる。
・その他市内の黄金伝説
 御船の森の神宮皇后の黄金の船(長田区)
 六甲山上の石宝殿その側の三つ葉ウツギの根元に黄金鶏(灘区)
 唐櫃台の神宮皇后の剣など武器や衣服に黄金の鶏を石の唐櫃に納め埋蔵(北区)
 神出の鉢伏塚に地元の庄が衰えたら掘り出すように黄金鶏を埋蔵(西区)
 白川村が寂れて三軒になったら再興にと埋蔵した白川大池奥の谷あい宝山に義経の金の鶏(須磨区)
 多井畑に村が衰退した時にと埋蔵した義経の黄金の茶釜(須磨区)
 筒井の村に衰退して三軒になったら掘り出すように割塚に黄金千枚(中央区)
 有馬街道沿い多聞寺の三つ葉オトギの木の元に9億9万の金(北区)
 山田町の丹生山中に「朝日さす入日かがやく白萩の下に黄金千枚」(北区)
 淡河の勝雄墓所石祠に「朝日さす夕日かがやくその下に黄金の綱が二本」(北区)、などなど。

阪神
・豊臣秀吉の埋蔵金(猪名川町・川西市、多田銀銅山)
 豊臣秀吉が亡くなる直前に、大阪城御金蔵の4億5千万両(現在価格約200兆円)を豊臣家の将来のために、金山奉行の幡野三郎らに命じて多田銀山の瓢箪間歩(坑道)など20数箇所に埋蔵したと伝わる。その後、大阪冬および夏の陣で一部は取り出されたようであるが、八門遁甲の秘法により埋蔵されたと伝える古文書の存在、金額のずば抜けた大きさなどから、徳川家康を筆頭に、過去、数知れないトレジャー・ハンターたちの的となっている。(別のページに「豊臣秀吉の埋蔵金、一考察」・・・LINKボタン(下段))
・阿保親王の金津山の黄金(芦屋市春日町)
 平安時代、この地を治めていた阿保親王(没842年)が村人たちのために宝物を埋め、「自然災害などで困ったときに、この塚を掘って役立てよ」として、「朝日さす入り日輝くこの下に、金千枚瓦万枚」という歌が伝わる。
・大原城の姫山神社の埋蔵金(三田市大原)
 戦国時代、荒木村重に攻め滅ぼされた大原城のお姫様の霊を鎮めるために城内主郭祀られた姫山神社の烏の森に、「入り日さす、朝日輝くウコン三つ葉の木の下に、烏が三羽に縄三把、困ったときに掘り起こして再興せよ」と伝わる。

東播磨
・赤松一族中道子山(ちゅうどうしさん)の埋蔵金(加古川市志方町城山)
 豊臣秀吉の播磨攻めで落城、その際に城主赤松孝橘が中道子山城内に財宝を埋蔵。「朝日照る、夕日輝く木の下に、瓦千枚、金千枚」と伝わる。
・別所長治が埋めた脇川山の軍資金(三木市細川町)
 細川町のあるゴルフ場内の調整池の縁にある黄金塚に、黄金が埋まっている(別所長治の軍資金?)と伝わる。

西播磨
・尼子氏の埋蔵金(佐用町上月、上月城跡)
 羽柴秀吉の播磨攻めに組みし、山中鹿之介らの尽力で再興された尼子氏が守る上月城が、三木城籠城する別所長治を攻めている秀吉軍が動けないと見て、毛利軍が攻撃。援軍を頼めないままに落城。その際、山中鹿之介が冴え渡る上空の月に「吾に艱難辛苦を与えたまえ」と戦いへの覚悟と勝利を祈り、尼子主従が上月城に軍資金を埋蔵し、「朝日輝く夜招く、一本松の下を掘れ、黄金あり」と伝わる。
・唐の沈没船が埋まる唐船山(赤穂市尾崎)
 昔、千種川河口付近の赤穂の沖で嵐で遭難沈没した唐の船が、長年の河川土砂に埋まり、陸続きの山「唐船山」(県内最低峰?)と呼ばれる。当時の唐からの船は交易用のお宝を積載していたはず。

但馬
・安木和泉守の埋蔵金(香美町香住区奥安木)
 安土桃山時代、奥安木城主安木和泉守が豊臣秀吉の山陰攻めにより落城した際に、純金の鶏13羽を埋蔵し、「朝日さし夕日輝く竹の元に、黄金の鶏十三羽」と、子孫の安田家に伝わる。
・垣屋氏の轟美久仁城埋蔵金(豊岡市竹野町轟)
 安土桃山時代、豊臣秀吉との戦いに攻め滅ぼされた垣内氏が、敗走時に金鶏(鳳凰鳥?)を轟美久仁城に埋蔵した。「朝日夕日、七日さす、おなだかもりの下に黄金の鶏を埋める。節分の夜子の刻にこの鶏は一声鳴く」と言い伝わる。
・虎臥城の財宝(朝来市和田山町、竹田城跡)
 羽柴秀吉が、生野銀山から産出する純度の高い銀鉱石(但州石)を山陰攻め、播磨攻めなどの財源として活用したことから、通称として生野銀山近くの竹田城(虎臥城)の財宝と称したか、本当に城跡に埋蔵したか。
・豊臣秀吉の生野銀山埋蔵金(朝来市生野町口銀谷)
 天下を取った豊臣秀吉が、大阪城御金蔵から、勘定奉行の幡野三郎に命じて多田銀山と同様に、生野銀山にも埋蔵したと伝わる。

丹波
・明智光秀の金山城埋蔵金(篠山市追入)
 明智光秀が天正6年、多紀郡氷上郡境の金山山頂に築城した際に、金山城周辺に黄金を埋めた。光秀の書き物(鍋蓋)に「金山の尾の尾の先の尾の先に、朝日照らす木の下に小判千両、有明の月」残した。ほか、宮田地方には「夏栗の尾の尾の先の尾の先に、黄金千両、有明の月」と、また草山地方にも「朝日射す夕日輝く花の木の下に、黄金千両細縄千尋(ひろ)」と伝わる。

淡路
・海賊、海猫小多八の埋蔵金(洲本市由良)
 江戸後期、瀬戸内海を荒らしまわった海賊(普段は漁師)、海猫小多八が西国諸藩の御用金5万両を積んだまま沈んだ竜王丸から密かに引上げた財宝を瀬戸内海のいくつかの小島に埋めた。その一部が、小多八の拠点があったとされる淡路由良の成ヶ島の対岸、由良地区の柏原山麓、中津川と相川の中間の海岸沿いに埋蔵され、後日、一部を生き残った子分の子孫が小判100枚と黄金の延べ棒、そして分散埋蔵した場所が載る地図を発見した、と伝わる。
・千光寺の埋蔵祠堂金(洲本市五色町鮎原)
 その昔、淡路島第一の名刹、千山千光寺の住職が五色町鮎原塔下に念仏堂を建て隠居した際に、千光寺の祠堂金を埋蔵し、「もし千光寺が壊れて再建困難なときは、この黄金を掘れ」と伝えたという。(2012年11月)
 

羽金山の埋蔵金2

 投稿者:N  投稿日:2015年 8月16日(日)01時42分42秒
返信・引用
  羽金山の埋蔵金の埋蔵金伝説  

小熊山の埋蔵金伝説

 投稿者:N  投稿日:2015年 8月10日(月)10時26分47秒
返信・引用
  羽島市役所 ふるさと歴史散歩 02 「小熊山の埋蔵金伝説」
http://www.city.hashima.lg.jp/0000003330.html

 小熊町西小熊の小熊山一乗寺は、平安初期の僧弘法大師(空海)が、18町歩(約17・9ヘクタール)の境内に七堂伽藍を建て、墨俣川(長良川)の橋の朽木で彫られた延命地蔵菩薩を安置して開基されたといいます。鎌倉幕府初代将軍源頼朝は、この地蔵菩薩に戦勝祈願をし、勝利を得ると本堂を再建しました。その後一乗寺が兵火により焼失すると、頼朝は再び一乗寺の伽藍を建立するとともに、たくさんの黄金を小熊山の松原に埋蔵。「朝日さす 夕日かがやく木のもとに こがね千両 後の世のたから」と黄金を埋めた場所を暗示した和歌を添えて寄進したといいます。

 時を経て、岐阜城主織田信長は、この地蔵菩薩を尊信し、金華山麓の慈恩寺へ移しました。ある夜、地蔵菩薩が信長の枕頭に立たれ「小熊へ帰りたい」と告げられました。信長はますます尊信し、岐阜の地を小熊と改め、地蔵菩薩にとどまってもらったといいます。現在、一乗寺には、慈覚大師(円仁)が彫った地蔵菩薩が安置されています。
※この話には異説もあります。(N)
 

小松寺の埋蔵金伝説

 投稿者:N  投稿日:2015年 8月10日(月)09時42分49秒
返信・引用
  寺宝
「旭さす夕陽輝く双樹の下に 漆千盃 朱千盃 銭十億万貫を埋めおく」
非常の際はこの財宝用うべし


小松寺の七不思議と埋蔵金伝説
http://enjoy-history.boso.net/book.php?strID_Book=0604&strID_Page=001&strID_Section=15
 七不思議という伝説は各地にあるといわれているが、小松寺にも次の七不思議の伝説がある。<1.晴天の雨、2.土中の鐘、3.暗夜の読経、4.半葉のしきみ、5.天狗の飛びちがい、6.七色が淵、7.乙王が滝> :乙王は小松民部の子千代若丸に仕えた少年で、延喜21年(921年)に寺院が落成して歌舞を奏したときに、千代若丸が怪物にさらわれ平久里郷で変死したことを嘆いて滝に身を投じたと伝えられている。

 ほかにも観音御塚{かんのんみづか}の埋蔵金伝説がある。これは里見家の埋蔵金ではないかとの話が伝わっている。
 

由比正雪の抜け穴

 投稿者:N  投稿日:2015年 7月18日(土)14時18分9秒
返信・引用
  由比正雪の抜け穴について
http://kagurazaka.yamamogura.com/tag/%E7%89%9B%E8%BE%BC%E5%9F%8E%E3%81%AE%E5%9F%8E%E8%B7%A1/

雑誌『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会でこの話が出てきます。

糸山氏 (袋町・光照寺住職) うちに深い井戸があるんですが、明治のはじめに井戸替えをしたら横に穴があったので掘っていったら百メートルも向うの南蔵院の本堂に出て、そこで碁を打っていた人に、ここは地獄ですか、極楽ですかと聞いたら、極楽だって言ったという話が伝わっているんですがね(笑い)。
山本氏 (袋町・山本犬猫病院) 出版クラブで最初の建物を建てるとき、東京芸大の内藤先生が調査にいらして、敷地の古井戸に石を落として深さを計ったんですが、四、五十メートルではきかなかったような気がします。そのとき丸橋忠弥とか由比正雪の抜け穴の話なども出ましたが、やはり真実とは違うようです。
小林(神楽坂5丁目・小林石工店) うちの隣の森さんがビルを建てたたとき、横穴がぽこんと出てきたのを初めて見ました。真四角で人間が這って通れるような。これがみんなのいう牛込城に抜ける穴かと。
糸山 麹(こうじ)の室(むろ)という話もありましたが。
小林 でも、それであんなに深く掘るもんでしょうか。
司会 (日本出版クラブ 大橋氏) よく、南蔵院へ抜けるとか、筑土八幡に抜けるとか、どこかに埋蔵金があるというような話が出てきますね。このあたりは牛込城の城跡ですし、江戸期にはそれなりに栄えたところで、高台だけに穴があって抜けられるというような話が生まれやすいところでもあるんでしょうね。
小林 うちの先祖代々の言い伝えでは、どこかに金の茶釜が埋まっているというので、終戦後、がれきの中から本気になって探したそうです。昭和43年、新宿区教育委員会の『新宿の伝説と口碑』では

13.由比正雪の抜け穴
[時代]江戸時代
[場所]袋町 光照寺
 神田連雀町(今淡路町)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいた楠不伝の道場をまかせられて、光照寺のところに移ってきた。
 明治末のことである。光照寺の井戸替えをしたところ、井戸の途中に横穴が見つかった。その横穴は、150メートルも離れた箪笥町の電車通りにある南蔵院まで続いていたという。
 昭和32年、光照寺の西北の日本出版クラブの建築工事の時、地下10メートルほどの所に、ぽっかり大きな横穴が出てきた。穴はかなり奥深くまで通じているらしかったが、危険なのと薄気味悪いので誰も奥に入ろうとはしなかった。また江戸時代初期の徳利や實永通宝、その他の古銭などが発掘された。
 そこは、江戸時代は旗本奴で有名な水野十郎左衞門の邸跡だから、その地下牢だろうという説が出たが、ここは水野邸跡でないことが分かった。それではやはり光照寺境内から続ている由比正雪の抜け穴だということで話題をまいた。
[原典] 毎日新聞 昭和32年10月17日連載記事「武蔵野の城あと」No16牛込
[解説] 明治末にここに抜け穴があったと伝えられたのは井戸替えしていた職人の1人が、休憩中に南蔵院に遊びに行き、碁を打って遅くなったので、横穴をたどって行ったとうそをついたことがもとで広まった話である。
 昭和32年の時は、それが抜け穴でないなら麹室だとか、牛込氏の貯蔵庫(光照寺跡一帯は牛込氏館跡であることから)だとか、いろいろ話題でにぎわったのである。
 江戸研究の綿谷雪氏は「続江戸ルポルタージュ(昭和36年6月) 人物往来社」の中でつぎのように書いている。
『夢想家の彼にとって、もっとも似つかわしい秘密工作であったとみてよろしいのではあるまいか。
 抜け穴は、城にはつきものである。城によっては実現したかもしれないが、秘中の秘だから記録は全く残っていないし、軍学者の築城術の本を見ても、どこにも抜け穴という項目はない』と。
 しかし、由比正雪が幕吏の目をくらませて、世間に知られないように抜け穴などが掘れたものであろうが、もしも掘れたとすれば、その掘り出した土の処理を、世間に分からないように処理することができたであろうか。昭和47年、上の本を書いた芳賀善次朗氏は『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社)を書ます。そこでは

由比正雪の抜け穴
光照寺には、由比正雪の抜け穴があったと騒がれたことがある。
 神田連雀町(今淡路町内)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいた楠不伝の道場をまかせられて光照寺境内に移ってきた。正雪はのちに榎町に移ったが、正雪が住んでいたことから結びつけたものである。
 明治の末ごろのこと、光照寺で井戸替えをしたところ、井戸の途中に横穴が見つかった。その横穴は150メートルも離れた箪笥町の大久保通りにある南蔵院まで続いていたというのである。
 これは、井戸替えしていた職人の1人が、休憩中に南蔵院に遊びに行き碁を打って遅くなったので、「横穴をたどって行った」とうそをついた事がもとになって広まった話であり、罪なことをいったものである。
 ところが、昭和32年、光照寺の西北に日本出版クラブが建築工事をした時、地下10メートルほどの所に、ぽっかり大きな横穴が出てきた。穴はかなり奥深くまで通じているらしかったが、危険なのと薄気味悪いので誰も奥に入ろうとはしなかった。そこから江戸時代の初期の徳利や寬永通宝、古銭なども発掘された。
 そこは、江戸時代は旗本奴で有名な水野十郎左衞門の邸跡だから、その地下ろうだろうという説が出たが、そこは水野邸跡でない。だからやはり、光照寺境内から続ている由比正雪の抜け穴だとか、麹室だとか、牛込氏の貯蔵庫だとか、いろいろな話題でにぎわったものである。
 由比正雪を研究した綿谷雪氏は、「続江戸ルポルタージュ」の中でつぎのように書いている。
 『夢想家の彼にとって、もっとも似つかわしい秘密工作であったとみてよろしいのではあるまいか。
 抜け穴は、城にはつきものである。城によっては実現したかもしれないが、秘中の秘だから記録は全く残っていないし、軍学者の築城術の本を見ても、どこにも抜け穴という項目はない』
 しかし、由比正雪が幕吏の目をくらませて、世間に知られないように抜け穴などが掘れたものであろうか、もしも掘れたとしても次の掘り出した土の処理を、世間に分からないよう処理することができたであろうか疑問である。
[参考] 続江戸ルポルタージュ 新宿と伝説
 

セ軍の五百万円日本金貨となる

 投稿者:N  投稿日:2015年 7月11日(土)14時07分20秒
返信・引用
  東京日日新聞 1921(大正10).3.20

セ軍の五百万円日本金貨となる

鮮銀が買い取って造幣局で鋳造

セミョーノフ将軍の金塊は何処を何う辿って何う処分されたか其の中五百数十万円は朝鮮銀行が買取り大阪の造幣局で日本の金貨に鋳直した事が判った是に就て日本銀行当局は「朝鮮銀行が五百数十万円の金塊を造幣局に持って来たのは昨年五月と六月の二口である其の前後に正金銀行の仲介でロマノフ政府の金貨を何千万と云う程買受けたが当時朝鮮銀行は露国の金貨にしろ金塊にしろ他から手に入れて居ないので右五百数十万円の金塊はセ将軍のものに相違あるまい、而して此の金塊の処分は先ず朝鮮銀行大阪支店が現品を造幣局に持って行き造幣局は検査の後仮引渡証書(期限を定めたもの)を作製し夫れに相当する額を証書面に記入して交付したのであるが当時検査其他に一二ケ月を要したので造幣局は日本銀行の諒解を□て該証書と引替えに即時通貨を渡した、金塊は既に鋳直して日本の金貨になって居る筈である」と語った、然らば朝鮮銀行は此の金塊を何人より買受けたか、信ずべき方面より調査した所を総合するに其の一部は平佐大尉並に白川友一の一派であるが他は意外にも東京府下中渋谷六一七森猛熊氏の手から入って居る取引地は大連及び哈爾賓の朝鮮銀行支店らしく森氏は其のコンミッションとして二十万円をセ将軍より受ける事になり昨年九月同氏は京橋木挽町九に本店を有し市来乙彦氏を社長とせる日露実業株式会社哈爾賓支店長杉浦竜吉氏に宛て右二十万円受領方を委任した事実がある此の森猛熊氏なる人は露国革命以来西伯利にあって自ら前田正名氏の甥と称し又は牧野宮相とも親戚の間柄だと云い尚お森銀行にも関係あるものの如く云っている一昨年八月中旬前記日露実業の市来社長と同郷関係から同社今村専務と共に先ず浦塩へ行き貿易業北垣内商会の社員足立正平を通訳に雇ってチタに赴きセ将軍及び其幕僚とも知り合いになり其後ロザノフ将軍周囲の人々とも関係をつけ昨年二月ロザノフ将軍が日本へ亡命して来た時は二ケ月間も自宅に潜まし此の間目まぐるしい行動をとり西伯利へも急行した、始め裸一貫の氏は今じゃ中渋谷に和洋折衷の堂々たる新邸を構え常に自動車で駆回っているなども識者は不思議がっている氏を訪ねると「私はセ将軍の幕僚であったアフワナシェフ少将やスイロバヤルスキー中尉と懇意になった、ア少将からチタに国立銀行を設立する件に就て相談を受けた事もある、私がセ将軍の金塊に関係したのは昨年の春で監査役アワナシユースが某米国人と共に百八十万円の金塊を擁しチタより大連に輸送して来た当時大連にいた私は或る事情で此の金塊を朝鮮銀行大連支店で正貨に替えてやった是れ以外金塊に関係した事は無いが問題の平佐大尉白川友一氏の事に就き聞く処に依るとチタより輸送の途中盗まれたと称する金塊は一箱六万円入を七箱即ち四十二万円を二回にやられたと云う事である貨車諸共行方不明になったと云う沢山の麦粉に就てセ軍副官より私に対して調査方を依頼して来た事があるが此の麦粉は輸送したので無く倉庫替をして目下哈爾賓に積んであるらしいセ軍のズブリョフ氏が日本へ来て京橋築地精養軒で白川友一氏と会見したのは其の後で即ち昨年六月頃と記憶しているが此の時平佐大尉も来ていたか何うかは知らぬ
 

ロシアの黄金強奪事件

 投稿者:N  投稿日:2015年 7月11日(土)14時05分19秒
返信・引用
  ロシアの黄金をめぐるスキャンダル
http://www.a-saida.jp/russ/zoloto/02.htm

日本を舞台にした、「ロシアの黄金」 に関連したスキャンダルには次のものがある。 それらの経緯を検証することは本稿 「ロシア革命の貨幣史」 の目的ではない。 ここでは、事件の概要を紹介するに留め、詳しくは、関連資料 を参照されることをお勧めする。

「陸軍機密費横領事件 1926年」
日本軍がシベリアで押収した金塊が、国庫に収められずに、軍が私的に管理・流用しているという噂は、かなり早い時期からあったが、時の政友会総裁 田中義一 (第一次大戦時は参謀次長、ついで原内閣 (1918-21) の陸軍大臣) がシベリア出兵当時の陸軍機密費の一部を横領して政界入りの資金にしたのではないかという疑惑が浮かんだ。 また、ハバロフスクなどで日本軍が捕獲した金塊の一部も行方不明となり、田中が疑われた。
誇り高い日本陸軍の組織ぐるみの犯罪ではなく、陸軍に巣くう一部の頭の黒い鼠たちが起こした窃盗事件もしくは詐欺事件にすぎなかったのであろうが、事件を捜査していた担当検事の変死事件 (次項) にまで発展したとなると、その巣は極めて大きく、犯人たちは虎より大きい鼠であったようである。

「東京地方検事局石田基次席検事変死事件 1926年」
上記事件に関連して、「陸軍機密費横領事件」 を捜査していた東京地方検事局の石田基 (もとい) 次席検事が、1926年10月30日朝、大森と蒲田の間の鉄橋の下の小川で変死体となって発見された。 死因は下あご付近の打撲とみられた。 石田検事は前夜、日比谷の料亭で検事の集まりに出席していたが、死体で見つかった場所は市ヶ谷の自宅とは逆方向だった。 多くの疑問が残ったが、検事局は過失死として処理し、解剖もせずに火葬にしてしまった。 石田検事の死で陸軍機密費事件は不起訴に終わり、その死と事件の結末には大きな疑惑が残った。

「セミヨノフ将軍の謎の金塊横取事件 1928年」
大正8年 (1919年) の7月頃、オムスク政府の最高執政官コルチャークより金塊を積載した車両2両を受け取ったセミョーノフは、翌年の3月頃、その金塊の一部 (33箱) を日本金貨に換えて、朝鮮銀行に預金し、その預金から140万円を武器買付けのための前渡金として、元帝政ロシアの日本駐在武官ミハイル・ポドチャーギン (Михаил Павлович Подтягин) 少将に送金した。 しかし、ポドチャーギンは、その金の一部を費ったただけであった。 その後、ロシアより亡命したセミョーノフが、代理人を介して106万円の返還を求めたが、ポドチャーギンは、「この金は、露国国家の公金で、セミョーノフ個人の金ではない」 と返還に応じない。 そこで、セミョーノフはまず、シベリア出兵当時の特務機関長であった 黒木親慶 を原告とする 「セミョーノフ金塊裁判」 を起こした。・・・
そのほか、「カルムィコフ将軍の金塊事件」 や 「ロザノフ将軍の金塊事件」 など、反革命側の将軍たちが亡命に際して持ち出した黄金と日本の派遣軍部隊にまつわる事件は枚挙にいとまがない。
  ◆ 関連の新聞記事 ( è  「セ軍の五百万円日本金貨となる」http://www.a-saida.jp/russ/zoloto/gazeta_zoloto_01.htm

「ペトロフ将軍の金塊返還を求める民事訴訟 1932-1940年」
1932年9月4日、コルチャーク提督の側近 ペトロフ将軍は金塊探しのために、大連から来日し、長崎、山口、神戸を経由して入京した。 彼は、カザンに保管されていたロシアの金準備のうちの22箱の黄金 (一説には、総額125万ルーブル相当) と一緒に亡命するに至ったが、他の勢力に黄金が奪われることを恐れて満洲駐留の日本軍に一時保管を託したという。 ペトロフは日本政府と関東軍司令部を相手取って、黄金の返還を求める民事訴訟を日本の裁判所で起こした。 ペトロフ一家は来日後 「二・二六事件 (1936年(昭和11年)2月26日)」 の頃まで横浜の豪邸に女中をおいて暮らしていたが、その資金は訴訟の結果に望みを抱く陸軍大将 荒木貞夫の周辺から出ていたものであるといわれた。 しかし、この訴訟は8年後の1940年に却下された。
ロシアでは、イズヴェスチヤ紙が 「ペトロフ将軍の金塊」 を報道した 1991年以来、何度も 「日本軍に奪われた金塊」 についてマスコミが取り上げている。 ロシア外務省も 1995年春に日本に対して問い合わせており、日本外務省は 「軍が議会に提出した報告書では、全部返却されている」 などと回答したという。

「ニコライ二世とコルチャーク提督が預けた金塊を返せ」
2004年4月、日本とロシアの有識者でつくる 「日ロ賢人会議」 がモスクワで開かれた際に、ロシアのボース下院副議長が、第一次大戦のころ、ロシアが日本に渡したとされる約8,000万ドル (約88億円) 相当の金塊の返還を日本に求めるべきだ、と発言した。 ボース副議長は、皇帝ニコライ二世とコルチャーク提督が武器購入のために4回にわたって日本側に金塊を渡したが、武器は提供されず、現在の価値で 8,000万ドル相当の 「皇帝の金塊」 が日本で保管されている、と主張した。 日本の外務省は 「今になって、なぜ話がでてくるのか理解できない」 と困惑を隠さず、「問題は決着済み」 とロシア側に申し入れたという。
日本では、「日本陸軍省はオムスク政府に対し、武器の売却未収金九十一万五千円がある (当時の金高で)」と、債務はロシア側にあるとしてきたが、ロシア側は 「1919年に日本政府は武器の輸出を禁止しており、買い付けた全ての武器は、結局日本に残った」 、すなわち、「金塊を渡したのに、日本からは銃も弾薬も受け取っていない」 と主張している。
 

ロシアの黄金強奪事件

 投稿者:N  投稿日:2015年 7月11日(土)14時02分11秒
返信・引用
  http://www.a-saida.jp/russ/zoloto/01.htm
黄金強奪事件の顛末

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Гл.ред.С.С. Хромов; "Гражданская война и военная интервенция в СССР"
М.,?Советская Энциклопедия? 1983. (221~222ページ) の解説 (下記の緑色の部分) に加筆・補足した (筆者文責)。
青色の部分は、同じく 「クイトゥン合意 (Куйтунское соглашение)」 の項目 (312ページ) の解説より抜粋した。

第一次大戦末期の1918年初頭、ソヴェト政府は、ドイツ軍進攻の危機が迫ったことによって、掠奪の危険にさらされている地域にあるロシアの金準備 (外貨支払い準備) を、 より安全なカザンの銀行の金庫に集めることを指示した。

1918年5月、モスクワ、タムボフ、サマラに保管されている金・銀・プラチナ・有価証券などから成るロシアの金準備が、カザンに移送された。 危険性の高いペトログラードからはもっと早い時期に搬出されている。

ロシア国立銀行は十月革命当時 12億6000万ルーブルの金準備を国内に保有していた。 これは金換算で975.5トンの黄金に相当する。
(当時の1ルーブルは純金 0.774234g (17.424ドーリャ)。 黄金 975.5トンの価値は、2005年末時点での金価格で換算すると、2兆円に相当する。)
カザンには、革命前から保管されていた財貨と合わせて、総計6億4,541万610ルーブル79コペイカの財貨が集積されたが、これは、ロシアの金保有量の半分以上がカザンに退避されたことになる。

ちなみに、ソヴェト連邦時代の金保有高は、(長い間極秘扱いされてきたが) 1991年7月に 374トンと、ソヴェト連邦の政府機関紙イズヴェスチヤが発表している。

1918年5月に チェコスロヴァキア軍団 の反乱が勃発した。 ヴォルガ中流域、ウラルおよびシベリアの鉄道沿線に分散していた軍団の部隊は、各地の反革命勢力と手を結び、鉄道沿線の主要都市を次々に占拠していった。 つい最近まで後方の安全な都市であったカザンも、反革命勢力の進攻の危険を直接受けるようになっていた。 6月になって国立銀行の地方機関の幹部は全ての財貨をカザンからモスクワのクレムリンの地下室へ移送することを指令した。 実行部隊が編成され、移送に必要な書類が整えられ、曳き船や荷船の準備についての指図がなされた。 しかし、事態はさらに尖鋭化していた。

7月22日にシンビルスク、25日にはエカテリンブルグが陥ちた。 モスクワのソヴェト政府はカザンの財貨の撤退期日を8月5日と決めた。 しかし、まさにその日、荷積みおよび財貨を桟橋へ移送するための労働者が銀行の建物へ到着した夕方の8時に最初の砲撃が轟き、そこへ白衛軍とチェコスロヴァキア人部隊が踏み込んできた。 8月7日の夕方6時には、V.O.カッペリ陸軍大佐 (1883-1920、1919年に全ロシア臨時政府軍の陸軍中将) の指揮のもと、 白衛軍とチェコスロヴァキア軍の混成部隊がカザンを占領した。 銀行のカザン支店の地下室で彼らは膨大な戦利品を手に入れたのである。 捕獲された財貨は黄金(金貨、インゴット、金製品)だけで総重量 30,563プード (約500トン) あり、それ以外にも、銀やプラチナ、有価証券が保管されていた。 一方、ボルシェヴィキは 612万3,796ルーブル (金換算約4.7トン) 分の黄金100箱のみの撤退をなし得たにすぎない。 カザンから大量の財貨を退避する計画は水泡に帰したのである。

反革命勢力の手中に陥ちたロシア国家の金準備は、コムチ (憲法制定議会議員委員会) が支配していたサマラへ向けて搬送された。

サマラには、1918年6月8日にチェコスロヴァキア軍部隊に占領された後、反革命勢力によって 「憲法制定議会議員委員会 (コムチ)」 が組織されていた。

サマラに到着した金準備は、赤軍に奪回されることを恐れて、より東方のウファへ、さらに10月には反革命の中心都市オムスクへ移送された (現存する調査資料からはカザンから搬出された金準備の正確な価値は不明である)。

1918年11月、ロシアの金準備を載せた軍用列車はオムスクへ到着した。 鉄道の駅から市の中心部まで軍隊が立哨し、その厳重な警備の下に財貨が国立銀行オムスク支店の金庫へ運ばれた。

オムスクでは、1918年10月にイギリスの支援で反革命の 「全ロシア臨時政府 (オムスク政府)」 が樹立されていたが、帝政ロシアの元黒海艦隊司令官 コルチャーク 提督が11月18日にクーデターを起こして最高執政官に就任し、軍事独裁政権を樹立した。 強奪されたロシアの黄金 (金準備) は、コルチャーク提督の掌中に入ったのである。 コルチャーク提督の命令で、1919年5月に実施された監査によって、金準備の概算額面価格は6億5,153万2,117ルーブル86コペイカと算定された。

連合国列強はオムスク政府に軍需品や食糧などの援助を行ったが、これは善意によるものでも、無償でもなかった。 ロシアの黄金は、この連合国列強からの支援の 「担保」 になった。 コルチャークの政府は、フランス、イギリス、日本、アメリカ合衆国からの武器・兵器の購入、政府の官吏や装備品の維持のために、この金準備からおよそ1万1,500プード(約188トン)の金(約2億4,200万金ルーブル)を費い尽くした。

「プード」はロシアの旧い重量単位で、1プード=16.38 kg 。
また、1金ルーブルは純金 17.424ドーリャ (0.774234g) 。
(1プード = 40フント = 3,840ゾロトニク = 368,640ドーリャ)

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1919年の春、連合国列強の支援のもとにウラル方面に進出していたコルチャーク軍は、南ロシアからモスクワを目指して北上する デニキン 軍や、ロシア北西部の ユデニチ 軍と呼応して、一時期はヴォルガ河の西方まで進攻したが、赤軍の総反撃によって敗退した。

1919年5月25日~6月19日、赤軍第五軍などによるウファ進撃で、コルチャーク軍は大敗を喫す。

コルチャーク軍を追撃してきた赤軍は、1919年10月20日、イシム河の左側背を突破し、オムスク西方約300キロに迫った。 オムスク政府の各官庁はイルクーツクへの移転を開始した。 オムスクには最高執政官コルチャーク提督と閣僚、軍幹部が残留したが、11月12日にはコルチャークと閣僚たちもオムスクを捨てた。 赤軍の追撃から逃れるコルチャークの列車と一緒に、オムスクからロシアの金準備を載せた軍用列車が出発した。 11月14日、赤軍は北方からオムスクを包囲し、同日、オムスクは陥落した。

最高執政官コルチャーク提督らオムスク政府の首脳部は、それぞれ2両の機関車が引く6列車でイルクーツクを目指していた。 その後を、金準備などの重要品を運ぶ29両編成の軍用列車が続いた。 そして、線路の横を橇や馬に乗り、あるいは徒歩で東に向かう難民の列が動いていた。

沿線各地ではコルチャーク提督に不満を持つ地方勢力が蜂起し、コルチャークの一行は反コルチャークの勢力によって四面楚歌の状況であった。 列車は混雑し、しばしば予告なしに停車し発車する不規則運転を繰り返した。 コルチャークの列車は、12月7日にトムスク南方のタイガ、 12月13日にマリンスク、12月17日にクラスノヤルスク、そして 12月27日にはニジネウヂンスク駅に到着した。 駅は、チェコスロヴァキア軍第六連隊が守備していたが、コルチャークの列車が停止すると、前後に装甲列車が位置し、線路上に配置されたチェコスロヴァキア軍兵士が機関銃と小銃で列車を包囲した。 ニジネウヂンスクではコルチャーク提督に不満を持つ市の守備隊が蜂起しており、 彼らからコルチャーク提督を 「警護」 するためであるとされたが、コルチャーク提督は彼の親衛隊を解散することを余儀なくされた。 フランス派遣部隊の司令官M.ジャナン将軍 (フランス陸軍中将。 バイカル湖以西連合軍指揮官でありチェコスロヴァキア軍統督の責任を持つ) の命令で、チェコスロヴァキア軍団司令部はコルチャークの列車と貴金属を載せた軍用列車をチェコスロヴァキア軍部隊の保護下に拘束した。

そのころ、イルクーツクの情勢は、ますます不穏になっていた。 アンガラ河に沿うイルクーツクは、当時129,700の人口を有し、オムスク (135,800人) に次ぐシベリア第2の都会であった。 イルクーツクには、コルチャークの本隊より一足先に到着していたオムスク政府の閣僚のほか、連合国代表団や各国の派遣軍が駐在していたが、赤軍接近の噂で動揺していた。 前年の12月に、社会革命党 (エスエル) やメンシェヴィキ、ゼムストヴォ市会など数十の政党団体代表者によって結成された 「政治センター」 が反コルチャークで蜂起し、市の北部を占領していたが、1月4日には最高執政官と首相が不在のコルチャーク政府は崩壊して、市の実権は反コルチャーク派の手に帰した。

1月8日、コルチャークの列車はニジネウヂンスクからイルクーツクへ向かって東行を再開した。 しかし、その時点には、連合国代表団や各国の派遣部隊はイルクーツクを引き揚げており、イルクーツクは反コルチャーク派に支配されていた。

《クイトゥン合意に向かっての休戦交渉》
1920年1月、コルチャーク軍の崩壊によって、東方への撤退を模索するチェコスロヴァキア軍団は、クラスノヤルスクにおいて、赤軍に対して休戦交渉を働きかけた。 1月11日、シベリア革命委員会と赤軍第五軍は、チェコスロヴァキア軍団司令部に対して降伏を勧告し、コルチャークの身柄とロシアの金準備などの財貨の引き渡しを要求した。 その見返りとして、チェコスロヴァキア軍団の祖国帰還については不可侵および協力を保証した。 しかし、このときは、チェコスロヴァキア軍団司令部はこの提案を拒否し、交渉は中断した。 そして、武器は引渡さないこと、鉄道、道路の破壊、軍用列車の焼却、鉄道への列車によるバリケードの構築の命令を出した。

1月15日、コルチャークの列車はイルクーツク駅に到着した。 このとき、イルクーツクには日本軍派遣隊 (第五師団第十一連隊のイルクーツク派遣隊約1個大隊) が殿(しんがり) として残っていたが、チェコスロヴァキア軍の無事撤退を第一目的とするジャナン将軍の命令により、コルチャーク提督とオムスク政府首相 V.N.ペペリャーエフ (1884-1920) の身柄が、コルチャークを警護してきたチェコスロヴァキア部隊からイルクーツクの 「政治センター」 に引き渡され、それからボリシェヴィキの軍事革命委員会の手に移された。 コルチャークとペペリャーエフは刑務所に収監された。 日本軍派遣隊は、1月19日にイルクーツクを撤収している。

《クイトゥン合意に向かっての休戦交渉》
1月21日、赤軍司令部はチェコスロヴァキア部隊の武装解除についての要求を徹回し、休戦交渉の再開を提案した。 しかし、(カッペリ指揮下のコルチャーク軍の残党がイルクーツクへ快進撃しているとの情報を受け取った) チェコスロヴァキア軍団は交渉再開を拒否した。

1月28日、ニジネウヂンスク郊外でチェコスロヴァキア軍の後衛部隊は赤軍第五軍の前衛部隊から打撃を受けた。 (チェコスロヴァキア部隊は装甲列車4台と全ての軍用列車を放置し、徒歩で東方へ敗走することを余儀なくされた。) チェコスロヴァキア軍団司令部は交渉の再開のため代表団を派遣した。 その条件は、赤軍第五軍の前衛とチェコスロヴァキア軍後衛の間に移動中立地帯を設定すること、チェコスロヴァキア軍団の軍用列車の石炭調達と撤兵の完遂に協力することであった。 チェコスロヴァキア軍団司令部は、コルチャークおよび彼の側近の運命に干渉しない、白衛軍を支援しない、彼らおよび列車中の旧コルチャーク軍の軍事物資を搬出しない、共和国の金準備、橋梁、機関車庫、駅、トンネル、そして運行の終着駅到着の後には機関車の車両を、損傷なしにソヴェト権力に引渡すことの義務を負った。

1920年1月末、イルクーツク市内ではコルチャーク提督を擁立する反革命の動きが顕著になった。 このような情勢の中、コルチャーク軍の残党が提督救出のためにイルクーツクへ急進しているとの情報がイルクーツクにもたらされた。 軍事的に手薄であったイルクーツク市内は恐慌状態になった。 このままでは流血の惨事は必至であるので、コルチャークに対する特別予審委員会は、人民多数の死傷を防止するために、騒乱の禍根であるコルチャーク提督とオムスク政府首相のペペリャーエフを 「緊急処置」 として処刑するむねを、イルクーツクへ進軍中の赤軍第五軍に問い合せた。 2月6日、コルチャーク軍部隊がイルクーツク駅を攻撃した。 この夜、赤軍第五軍と連絡がとれ、同軍指揮官は、提督と首相の処刑はやむを得ない情勢と認められる、と通告してきた。

2月7日未明、銃殺隊が刑務所に到着した。 コルチャーク提督とペペリャーエフ首相に処刑が告げられ、2人は監房から引き出された。

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《クイトゥン合意》
1920年2月7日、コルチャーク提督が銃殺されたその日、イルクーツクの北西320km のクイトゥン駅で、チェコスロヴァキア軍団司令部とソヴェト政府との間で続けられていた交渉 (我々は君たちに黄金と生身のコルチャークを、君たちは我々に祖国帰還のための機関車と車両を) に関しての合意書に、双方の代表は署名した (クイトゥン合意 Куйтунское соглашение )。

コルチャークを救助しロシアの金準備をソヴェト国家から搬出する試みは成功しなかった。 (ジャナン将軍は金準備を日本軍の派遣部隊へ引渡すことを命じ、チェコスロヴァキア外務大臣E.ベネシュはそれをチェコスロヴァキアへ送り届けようと努めていた。)

クイトゥンの合意によって、3月1日にイルクーツクの軍事革命委員会代表に額面価格4億962万5,870ルーブル86コペイカの黄金などの貴金属が入った5,143箱と1,678袋を載せた車両18両が引き渡された。 このロシア国家の金準備は、1920年3月3日にカザンに届けられ、銀行の金庫へ入れられた。

4億962万5,870ルーブル86コペイカ (黄金 317トンに相当) は、1920年 (大正9年) 当時の日本の一般会計歳出額13億6,000万円 (内、一般会計軍事費6億5,000万円) と比較すれば、相当な金額である (当時、1金ルーブルは、ほぼ1円)。

チェコスロヴァキア軍団の最後の部隊のロシアからの撤兵(1920年10月)に伴って、双方遵守したクイトゥンの合意は10月に自然失効した。

「軍団が所有していた金準備の一部は引き渡されずに、軍団が密かに持ち帰えり、チェコスロヴァキア建国の資金になった」 といった風説もあったようであるが、誇り高いチェコ人やスロヴァキア人たちが、クイトゥンでの合意を反故にするような姑息なことを行ったとは、到底考えられない。

è  チェコスロヴァキア共和国の建国(http://www.a-saida.jp/russ/vetvi/cs_republika.htm)

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1991年9月13日にイズヴェスチヤ紙が報道した、ペトロフ将軍が満洲駐留の日本軍に一時預けしたという黄金 (強奪された金準備の全体からみると、きわめて微々たる量である) は、 「ロシアの金準備」 の警備がチェコスロヴァキア軍団に移管される前に隠匿されたものであろう。 それ以外にも、セミョーノフ軍の金塊強奪事件など、「シベリア出兵」の周辺には、黄金にまつわる話題は尽きないが、ここから事件の舞台は日本に移ることになる。
  è  ロシアの黄金をめぐるスキャンダル(http://www.a-saida.jp/russ/zoloto/02.htm)
 

1991年9月13日付ソヴェト連邦政府機関紙イズヴェスチヤ

 投稿者:N  投稿日:2015年 7月11日(土)13時54分22秒
返信・引用
  1991年9月13日付ソヴェト連邦政府機関紙イズヴェスチヤ
http://www.a-saida.jp/russ/zoloto/izverstia.htm
記事の日本語訳

日本は、ロシアの黄金22箱を返還するか

その可能性はあると、コルチャーク派の将軍の子孫は断言している

モスクワでの同胞者会議を最近訪問した人々の中に、カリフォルニアのビジネスマン、セルゲイ・ペトロフ氏がいた。 彼の父親のパーベル・ペトロフは、内戦当時、 A. コルチャーク 提督の補給・宿営担当将官(現在の用語では後方司令官)であった。 彼はコルチャークと共に退却し、詰まるところ、革命の時期にカザンに保管されていたロシア帝国保有の金の貯えのうちの22箱の黄金と一緒に亡命するに至った。 その地でその黄金は、1918年にコルチャークの手に陥ちていたのだ。 今まで、歴史家たちは、この 「カザンの黄金」 の残存物は、チェコスロヴァキア軍団 の司令部がボリシェヴィキの委員たちとのとの取引 ― 我々は君たちに黄金と生身のコルチャークを、君たちは我々に祖国帰還のための機関車と車両を ― の結果、ソヴェト共和国に戻されたものと考えていた。

金の貯えの一部である22箱はペトロフ将軍が 「隠匿」 していたことが明らかになった。 この 「黄金の箱」 の運命は如何に? このことについて、アメリカ・ソヴェト会社ASRGのコンサルタントで歴史愛好家 (米国で彼はソ連共産党の 「灰色の枢機卿」 M.A.スースロフについての書籍を刊行した)、ペトロフ将軍の息子セルゲイ・パヴロヴィチが語っている。

粉砕されたコルチャーク軍の軍用列車がシベリア鉄道で東方へ退却していた、その混乱とパニックのとき、黄金は白軍からも赤軍からもチェコスロヴァキア人たちからも見られぬように隠蔽することはそれほど困難ではなかった。 車両には 「干し草」 と書かれ、箱に 「ダイナマイト」 と目立つように書かれて、車両は病院列車に繋ぎ足された。

その先は、線路はチタおよび東支鉄道を経由してハルビンへ通じていた。 この時期、ザバイカル地方では セミョーノフ が権力を掌握していた。 セミョーノフの一派は、マフノ おやじに劣らず、白軍側にも赤軍側にも強盗を働いていた。 ペトロフ将軍はジレンマに陥った。 黄金を全て失うか、あるいは...日本の軍当局にその保管を委託するか、ペトロフ将軍は決断を迫られた。 ふたつ目を選択した。

1930年代の初頭、ペトロフ将軍は家族を伴って日本へ亡命した。 そこで彼は、最も適切な時まで、日本の銀行のひとつに既に全く公式的に保管を委託されているこれらの箱を取り戻すことを試みた。 始めのうちは万事成功裏に展開するかのようであった。 しかしその後、難儀なことが起きた。 民事当局は応じても、軍事では、何も始まらないのである。 どのような黄金か? 逃亡者ペトロフ将軍とはどのような人物で、どのような政権を彼は代表しているのか? そこでペトロフは裁判を仰ぎ、ほとんど勝訴した。 ほとんどというのは、我が国で大変動がしばしば起こったことだけではない。 ペトロフ将軍に有利な最終判決が下される前に、日本ではクーデターが起き、政治結社が政権を握ったのであった。 ペトロフを支持する日本の文民である、裁判官、弁護士、予審判事たちは、政治結社によって弾圧され、或る者は銃殺された。 将軍自身は急遽家族を伴って米国へ逃れ、彼は後年そこで死去した。

「日本ではクーデターが起き ・・・ 或る者は銃殺された。」
クーデターとは「二・二六事件」のことであろうか。 日本の歴史に対する認識のズレが若干あるようである。 二・二六事件とは、1936年(昭和11年)2月26日に、陸軍青年将校ら1,483名が起こした反乱事件であるが、クーデター未遂事件であって、政治結社が政権を握ってはいない。 ペトロフ将軍の敗訴は、軍部の圧力によるものではなかったと思うが、いずれにしても、この事件以来、軍部の力が急速に強まり、何者も軍部には逆らえない風潮がさらに色濃くなってきたことは確かである。

しかし、「黄金の箱」 についての事件は跡形もなく消失してしまったのではない。 満洲の日本軍当局の公的な受領書が存在する。 その原物はサンフランシスコの亡命ロシア人老兵古文書館に保存されている。 それ以外にも、日本の古文書館には 「ロシアの黄金22箱の訴訟」 そのものの資料が保管されていたのである。

ペトロフ将軍によって日本の官憲に保管を委託されたロシアの黄金の問題は、とりわけ我が国の現今の状況および確実な保証による信用保障の必要性の見地からに照らして、十分に現実的である。 ちなみに、亡命者として家族ともに困窮したとはいえ、将軍自身はこの箱からは何も取らなかった。

正確な総額と重量を将軍の息子は記憶していないが、それを確かめることは難しくない。 黄金を輸送するための箱は標準的なもので、ロシアの金の貯えの 「カザンの保管」 目録は我が国の古文書館に存在しており、コルチャークによるこの黄金の強奪についての 「白軍側」 歴史家たちの専門的な発表も国外には豊富にある。 それゆえに計算することは困難ではない。 より難儀なのは、ロシアがそれを国家財産に取り戻すことである。 しかし、日本の官憲との交渉を始めることは、ぜひとも必要である。

V.シロトキン
外務省外交研究所教授
同胞会議組織委員会会員

来週、ロシアテレビでドキュメント映画 「和解:同胞会議への後書き」 が放映される。 視聴者はそこでペトロフ将軍の息子の話を聞くことができるであろう。
 

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