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豊島家の財宝

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月22日(日)16時20分48秒
返信・引用
  【ココ掘れ埋蔵金】練馬区に眠る金銀財宝!? 江戸時代から伝わる幽霊話と密接な関係も!
http://tocana.jp/2013/11/post_3236_entry.html

昨今近現代の陰謀ばかりを紹介してきたが、今回は少し趣向を変えて日本の古い怨霊伝説が流布され、その伝説がどのような陰謀になったのか、そしてなぜ伝説や陰謀の副産物として「埋蔵金」があるのかということを話してみよう。

 まず、東京都内で有名なのが「照姫の怨霊」にまつわる「豊島家の財宝」だろう。伝説では豊島家当主・泰経(やすつね)が、代々伝わる金銀財宝を東京都練馬区・三宝寺池(さんぽうじ)に沈めたと伝わっている。しかも、この財宝はいまだ池の底に眠ったままの可能性があるのだ!

■豊島家VS太田道灌 財宝にまつわるヒストリー

 豊島家とは、源頼朝が挙兵した際にこれに呼応し、鎌倉幕府の有力御家人となった豪族である。石神井川と三宝寺池を起点に延びる谷との間に挟まれた台地上に位置する石神井城を居城とし、関東で地位を築いていた。しかし室町時代後期、関東管領であった山内上杉顕定(やまのうちうえすぎあきさだ)の有力家臣である長尾家が、上杉家に弓を引く「長尾景春の乱」が勃発、豊島家も景春に呼応して上杉氏に反旗を翻した。

 この豊島家に対立したのが当時関東で兵法の天才といわれた太田道灌(おおたどうかん)である。太田道灌は数に勝る豊島氏と沼袋・江古田の合戦で対峙し、巧みな用兵で豊島氏を打ち破った。当時豊島氏の当主であった豊島泰経は一度、石神井城に入り、その後夜陰に紛れて逃亡。残された女子どもは城とともに討ち死にしたが、泰経は石神井城落城の時には死なず、脱出して翌文明10年(1478年)に平塚城で再挙している。

■落城した豊島家、城に隠されていた財宝は……!?

 伝説では、逃げ出した豊島泰経は落城の前日に三宝寺池に向かい、金銀財宝と先祖伝来の宝「金の乗鞍(馬の上に乗せる鞍)」を雪のごとき白馬に置いたまま池に沈めたという。この際に照姫という美しい娘も白馬とともに引き込まれるように入ってゆき、白馬、照姫、そして豊島家伝来の金銀財宝や宝がいずれも池の中から出てくることはなかった。

 文武の名将・道灌はこれを憐れみ、照姫の亡骸を弔って塚を築いた。この塚はいつしか姫塚と呼ばれ、そのそばに立つ老松に登ると池の底に金の鞍が燦然と輝いているのが見えるという。

 なお、この伝説の舞台となった東京都練馬区の石神井城跡、石神井公園では昭和63年(1988年)以来、三宝寺池に入水した照姫の悲劇をしのんで、毎年4月の第四週目の日曜日「照姫まつり」を開催している。

■心霊スポットになった、三宝寺池

 だが江戸時代頃からこの伝説では、三宝寺池で豊島泰経も一緒に死んでいることになっており、池には幽霊が出るという話になったのである。明治時代の奇譚書によると、江戸時代の話として、この三宝寺池の幽霊姫の話が掲載されている。

 三宝寺池のほとりで若い男女が逢引きをしていると、池が急に明るくなり中央に白い馬に乗っている美しい姫が浮かび上がった。姫が男性を手招きすると、逢い引きをしていた男性は、何かに吸い寄せられるように池の中に入っていった。後には女性だけが残され、彼女は家に帰りお婆さんにことの顛末を話した。するとお婆さんは、すぐに家の扉を閉めて家じゅうに塩をまき清めようとしたが、翌朝女性も男性同様池の中へ…。女性は、夢遊病者のように歩きながら「金の鞍が呼んでいる。池の中に城がある」とつぶやいていたという。

 だがこの話は、単なる幽霊話では終わらない。このような話が流布されるときは、この地域の為政者が“なんらかの理由”によって、人を近づけないために噂を流布している場合が多いのだ。しかし、すべてがフィクションであれば、民衆をだませないため、幾分かの真実がありその真実の上にフィクションを重ねてこのような話に仕立て上げるのである。

 では、江戸幕府がこの時代に三宝寺池に人を近づけたくなかった理由は一体何であろうか。

■幽霊話が出た理由とは?

 これには二つの理由がある。一つは、江戸城を作った太田道灌という人物に対する嫉妬であろう。しかしそれくらいの嫉妬心だけでこのような幽霊譚が幕末まで400年も続くはずがない。もう一つの理由が重要だ。その理由とは「水」である。

 北条氏が関東に覇を唱えたにもかかわらず、小田原を出なかったのは江戸が水に恵まれていなかったという事情がある。城下町を大きくするためには、多くの土地と水が必要だが、江戸は今でいえば関東ローム層であり、水はけがよく治水には多大な労力が必要だった。その地域に築城された江戸城は、もともと低湿地帯にできた城であり、現在の新橋の方向はほとんど海であったという。映画『男はつらいよ』シリーズの舞台である柴又は、もともとは低湿地帯で「島また島」が略されて「柴又」という地名になったという由来もある。土地の足りない江戸城は、その土地の多くを埋め立てることによってできた。

 しかし、埋立地に井戸を掘っても、海水が混じってしまう。そのため江戸を城下町にするにあたり、幕府は優良な湧き水を多く川に流すことにした。中でも現在の杉並の善福寺池、そして石神井の三宝寺池は優良な江戸市民の水源地だったという。それでも足りなかったために玉川兄弟に玉川上水を掘らせたことは有名だ。その水源地から石神井川、および善福寺川を流し、玉川上水を誘致し、江戸の広大な土地の飲み水を確保したのである。

 その水源地に人を近づけ寄らせないのは江戸の治安上必要なことだ。特に疫病などが流行した時には、きれいな水を確保するのが重要になってくる。例えば「神田明神」も江戸城の拡張によって移転させられたが、これは水を汚されないよう、より神聖なものを置くことによって不用意に人を近づけず、神社の神官に管理させるということがあげられる。そして三宝寺池と同じように「平将門の怨霊伝説」が存在し、不用意に近づけば祟られるという構造になっているのである。まさに「人を近づけない」陰謀が存在していたのである。

 人が近づかないようにしていたため、現在も「豊島家の財宝」は三宝寺池に沈んだままということになるだろう。すでに600年も前の財宝であるため、金銀以外は腐敗している可能性もあるが、それでも夢のある話だ。

 だが、それだけに多くの人の念が詰まっている場所であり、石神井公園は現在でも心霊写真などが撮影できるスポットとして有名である。これら怨霊伝説、および本物の心霊現象に負けず、豊島家の財宝を探すことができるのか。この本物を探すということに関してロマンはあるが陰謀社会学の範疇ではないので、皆さんの判断にお任せする。
 
 

海賊藤原純友の財宝伝説

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月21日(土)16時53分0秒
返信・引用
  海賊藤原純友の財宝伝説 日振島 まちぶら
https://www.youtube.com/watch?v=za4nES-IMo4&index=21&list=PL_cSDotubJqW8ygiSTvgMFD9sUCYD7i1R
宇和島港から西に約30キロの沖合に浮かぶ日振島には、こんな言い伝えがある。平安時?代の海賊藤原純友が残した財宝が眠っている――。

知られざる宇和海 日振島 藤原純友財宝伝説の行方
https://www.youtube.com/watch?v=o_hroRCodls&index=20&list=PL_cSDotubJqW8ygiSTvgMFD9sUCYD7i1R
愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ孤島 日振島とその周辺は平安時代、平将門の乱とほぼ同時期に藤原純友の乱と呼ばれ時の律令?国家を動揺させた海賊の首領と呼ばれる藤原純友が隠したという財宝伝説が残っている。?この伝説ははたして本当なのか?純友はどこにその財宝を隠したというのか?歴史をひも?ときその謎を追っていくとどうも純友の財宝というものが、日振島とその周辺のかなり限?られた場所に特定できそうなのだ。はたして純友の財宝はどこに?
 

長範の玉石

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月19日(木)18時40分50秒
返信・引用
  JAながの ふるさと昔話
http://www.ja-nagano.iijan.or.jp/legend/2011/03/99.php
長範の玉石  信濃町熊坂
七百年ぐらいむかしのこと。
越後ざかいの熊坂村に長範という子どもがおったと。
体格はずばぬけて大きく、知恵も力もあり、そのうえ太腹だったので村びとは、「この子は、いまに大物になるぞ」と、うわさをしていたと。
それから十幾年、長範は村から姿を消していたが、ひょっこり帰ってきた時は、おどろいたことになんと盗賊のかしらになっておったと。
野尻湖の北方の小高い山を長範山と名付け、そこを根城にして、大ぜいの子分と各地を荒らし廻ったと。
盗賊ながら長範は、「老人やおんな、子どもに手をかけるな」「貧しい家をおそうな」と、きつく子分たちをいましめていたと。
そんなわけで、各地の長者たちをおそい、金銀財宝をうばいとる熊坂長範の名は天下にとどろいていたと。
さて、ある年のこと。
長範は、金売吉次の一行がたくさんの金塊を持って都からみちのくへ行くことを聞きつけ、その金塊をうばう策をねった。
大ぜいの子分を引きつれ、長範は木曽路から山づたいの美濃の国に入った。
そして長者の屋敷に泊っている金売吉次に夜討ちをかけたと。
これまでにない大成功をもくろんでいたのに、なんとしたことか、その夜にかぎって牛若丸が同行しておったので、さすがの長範も牛若丸にはかなわず、逆襲にあって殺されてしまったと。
戦国の世に平家をきらって盗賊となり、世直しのため資金を貯えていた熊坂長範は、ここにあえなくほろびてしまった。
しかし、現在も信州信濃の長範山の周辺には、“長範屋敷”“物見の松”“厩久保”などの地名が残っており、むかし話がいきづいているのでおもしろい。
ところで、信濃町から越後路へ入る国道十八号線の赤川手前の大曲から西北へ三百米ほどのところに、“長範の玉石”がある。
大きな岩石で、「この下に長範の調達した莫大な財宝が埋められている」と伝えられている。
また後日になって、“朝陽のさす夕日輝くところ、夏あつからず冬寒からず山足半かな”と、いう宝物のかくし場所をほのめかす書き物が見つかり、この謎の場所をさがす人があとをたたなかったが、いまだに発見されておらんと。
そうそう、「長範山の水をのむと盗み心がおきるから決して飲むな」という、いましめも伝えられておりますよ。
編 信濃町「かたかご童話会」
え 倉石 和彦
 

明智光秀の埋蔵金

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月19日(木)14時46分19秒
返信・引用
  http://www.city.sasayama.hyogo.jp/minwa/tannan/mdt030.html

明智光秀の埋蔵金

其の三十●明智光秀の埋蔵金 ■追入

 明智光秀が織田信長の命をうけて丹波攻めしたのは、今から約四百年前の天正三年から七年にかけての二度に及んでいます。
 ニ度目の天正六年には、氷上郡と多紀郡の境である金山の山頂に一夜のうちに金山城を築城したと伝えられています。
 ある時、城中より出た光秀は、宿場町としてにぎわっている追入の一軒の宿屋に入り、主に書くものを求めると、主人は真新しい鍋ふたを差し出しました。
 すると光秀は矢を持って
   金山の 尾の尾の先の尾の先に
   朝日照らす木のもとに
   小判千両 有り明の月
という歌を書いて帰城しました。
 後の世になってそのことを知った里人たちは、その鍋ぶたに書かれている歌こそが光秀が黄金を埋めた所に違いないと大騒ぎになったのです。
「朝日照らす気」というのは、白南天に違いないと白南天をさがす者、穴を掘って壷に入れているはずだからその上を歩くと音が変わっているに違いない、とさがす者などが出ました。
 金山城周辺に伝わった光秀の埋蔵金のありかを示す歌は、この他にも宮田地方には
   夏栗の 尾の尾の先の尾の先に
   黄金千両 有明の月
として伝わり、草山地方には
   朝日射す 夕日輝く花の木のもとに
   黄金千両 細縄千ひろ
として伝わっています。
 光秀の埋蔵金説は、金山城から尾根を伝って夏栗山、三尾城、さらには草山の細見城へと伝わったのでしょうか。
 こうした言い伝えは、つい最近まで、子供達がハイキングに金山に登る時にはいつも話題になっておりました。
 

~月島・佃をゆく10~かつて金塊が引揚げられた越中島

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月13日(金)22時54分27秒
返信・引用
  ~月島・佃をゆく10~かつて金塊が引揚げられた越中島
https://www.youtube.com/watch?v=Xt0JHM5aRhQ&list=PL_cSDotubJqW8ygiSTvgMFD9sUCYD7i1R&index=11

穏やかな流れをたたえる隅田川のほとりにある越中島。
終戦直後の昭和21年4月、この海底から金塊(インゴット)が引揚げられるという出来?事があった。GHQ(連合国軍総司令部)が所有する戦後復興の秘密資金として、
戦後の事件史に登場した「M資金」詐欺のきっかけとなったエピソードを紹介する。
 

.「黄金伝説の郷 多田銀山」HD版 by テレビ猪名川 .

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月13日(金)22時53分3秒
返信・引用
  「黄金伝説の郷 多田銀山」HD版 by テレビ猪名川
https://www.youtube.com/watch?v=31j3NfCPLSc&list=PL_cSDotubJqW8ygiSTvgMFD9sUCYD7i1R&index=5

◆作品名:「黄金伝説の郷 多田銀山」HD版 by テレビ猪名川

「黄金伝説の郷 多田銀山」HD版 オリジナルSD版制作 2006年9月30日 HD化 2012年10月7日
企画・制作 多田銀山史跡保存顕彰会 17分10秒作品  ナレーション 高橋征二

<VTR作品の概略>
この作品は兵庫県川辺郡猪名川町にて地元多田銀銅山の保存・顕彰活動を行なっておられ?る地域団体「多田銀山史跡保存顕彰会」さんが会の創設10周年を記念して当インターネ?ットテレビジョン「テレビ猪名川」が共同で2006年に制作した作品です。
このたび多田銀山史跡保存顕彰会」さんのご了承を受け、オリジナルの当作品をそのまま?HD化して更に多くの皆様に多田銀銅山について理解を深めていただけるよう初めてYo?uTubeのテレビ猪名川チャンネルHDにて公開させていただくことになりました。

なお、この作品はオリジナルの制作から約6年経過している関係から、ご紹介している内?容が現在の状況と一部差異がある点についてご了承願いいたします。
また、今回の作品公開にあたって関係者の皆様に多大なるご協力いただけましたことをこ?の場をお借りしてお礼申し上げます。
この作品のナレーションをお願いしたのは元ラジオ大阪(OBC)アナウンサー高橋征二?さんです。ラジオテレビのCMなどで高橋さんのお声をちょくちょくお聞きすることがあ?ります。本当に素敵なお声です。
 

さらさら越え、立山越えず? 金沢・玉川図書館に書状の写し

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月 9日(月)18時33分26秒
返信・引用
  北國新聞社  石川のニュース 【9月30日03時22分更新】

 戦国時代、越中を治めた佐々成政(さっさなりまさ)が冬の立山越えをしたとされる「さらさら越え」で、成政が越中に戻った直後に書いたとみられる書状の写しが金沢市玉川図書館近世史料館にあることが、29日までに分かった。書状には、成政が越後の上杉景勝の家臣と内通していることを示す内容が記されている。確認した富大人文学部の鈴木景二教授は、さらさら越えが北アルプスを通らずに越後を抜けたとの説を後押しする史料としている。
 さらさら越えについては、立山の「ザラ峠」を越えるルートが通説だが、厳冬期の立山越えは現在でも極めて困難であるため、鈴木教授は遭難の可能性が最も小さい越後を通る説を支持している。ただ、当時の越後は成政と対立する上杉景勝の勢力圏で、敵地を通ることは考えにくいとされてきた。

 今回、近世史料館で確認された史料「村上家系図書翰(しょかん)等控」には、景勝の家臣の村上義長に成政があてた書状の写しが含まれていた。鈴木教授によると、書状は1585(天正13)年1月21日に書かれ、成政が「この度そちらへ参ったところ、山入りまで送ってくださり、お礼の申し上げようもない」などと義長に感謝を伝えている。

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20130930105.htm
 

鹿角の伝説 金の長いも

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月 9日(月)18時26分3秒
返信・引用
  鹿角の伝説  第5話 金の長いも

 徳川家康が江戸に幕府を開いた頃の話である。みちのくの津軽と南部の境を定めるために十左衛門(じゅうさえもん)という南部の代官が鹿角にやってきた。
十左衛門は、錦木から尾去沢の山々を調べ、まずこの辺を境にしようと決め、しばらくこの場所に住むことにした。

 村人は、代官様がこのような田舎にわざわざ来てくれたとのことで、ご苦労のお見舞いにと、代官の家を代わる代わる訪ねた。そして、十左衛門の屋敷は村人の訪問でにぎやかになった。

 十左衛門は、親切にも、訪ねてきた村人の話し相手になり、百姓の仕事の難儀さや作物のできぐあいなどの話に耳をかしてやったので、村人も喜び、十左衛門のことを、「こんど来た代官様は、いい人だ、南部一のいい男だ。」とうわさしあっていた。

 さて、ある日のこと。百姓の女が二人の息子を連れて十左衛門の屋敷を訪ねて来た。十左衛門は、あいにくその日が忙しかったため、話を聞いてやることができず、別の日にまた来るようにと話して帰した。女は帰るときに、土産にと持ってきたワラの包みを十左衛門に置いていった。その晩、十左衛門がその包みを開けて見ると、中から四尺ほどの長さの長芋が出てきた。「おお、これは見事なものじゃ。」と手にとってよく見ると、その芋はキラキラと金色に光っていた。十左衛門は驚き、今日の用件を聞いてやるということこの芋を持って来た女へさっそく使いを出した。そして、家来は、その夜のうちにその百姓の女を連れてきた。

 「今日訪ねてきた時のお前の用件とはどんな事じゃ。」十左衛門は親切に尋ねた。女によると、十数年前に夫が死んでから、欲張りの伯父に夫が残した土地を全部取り上げられてしまい、どうやって自分たちは生きていったらよいのかと困っているとのことであった。

 「お前には子供はいるのか。」と十左衛門が聞くと、「太郎子、次郎子という二人の子供がおります。」と言い、百姓の女は暗がりの外を指さした。見ると、そまつな格好をした若者と、その弟と思われる少年が、地べたに座って心配そうに成り行きを見守っていた。正直そうな二人の若者の顔を見て、「よろしい、よく調べてできるだけの事をしてやる。まず今夜は安心して帰りなさい。」と十左衛門は申し渡してその親子を帰した。次の日からさっそく、村の長老を集めて意見を聞き、女の伯父も呼んで事実関係を調べると、すべて百姓の女の言ったとおりであった。

 そこで、十左衛門は、伯父が女から取り上げた土地を女に返すように話を進め、この事件を円満に解決してやった。百姓の女は、とても喜び、村に帰って皆にこのことを話した。

 それからは、「お代官様は、長芋がお好きらしい。」「長芋を土産に持っていくと、悩み事を解決してもらえる。」という噂がたち、十左衛門のところには、長芋を掘って差し出す者が次々と現れ、屋敷の台所も長芋の山でうずまるほどであった。

 さて、十左衛門がその芋を一つ一つ調べて見ると、どれにもみんな少しずつの金の砂が付いていた。「百姓は砂金というもののありがたさを知らないのか。」と十左衛門は家来をつれて百姓の女を訪ねた。そして芋畑の場所を教えてもらいよく調べると、やはり辺り一帯はすばらしい砂金の畑であった。

 十左衛門はすぐに境界を決めて、ここへ番所を置いた。そして、太郎子や次郎子とも力を合わせ、ここの畑の土を水に入れて、かきまぜ、流し、残った砂を乾かすなどして、たくさんの砂金を採取した。

 これが、白根金山発見の始まりと伝えられている。


十和田八幡平観光物産協会
http://www.ink.or.jp/~kankou18/index.html
「鹿角の伝説」(平成10年3月:鹿角地方部発行)
※当冊子は、語り口で表記されている「陸中の国鹿角の伝説」(鹿角市「郷土学習教材」編集委員会 編 平成4年3月発行)の中から主な伝説をとりあげ、読みやすく編集しなおし、さらに七滝伝説も加えて、鹿角に伝わる主な伝説として編集したものです。
 

蒜沢の黄金のかめ

 投稿者:N  投稿日:2014年 6月 9日(月)18時12分3秒
返信・引用
  蒜沢の黄金のかめ (大川地区)  蒜沢の地名にまつわる伝説

むかし、黄金を持った武士が、敵に追われて、蒜沢川あたりまで逃げ延びてきました。
つかれと空腹に耐えかね、これ以上重い黄金を持って逃げるのは無理だと考えた武士は、付近の家からかめを持ってきて黄金を入れ、穴をほって埋めて土かけました。
そして、あとでほりに来た時の目印に、人目につかないようなものはないかと考えたところ、ふと、腰に下げて印ろうに気がつきました。
印ろうの中には、にんにくが入っていたのです。
にんにくは、北海道では野生しないので、これはよい目印があったと考えた武士は、かめをうめたあたりに、にんにくを植えて立ち去りました。
それから長い年月がたちました。武士のその後はわかりませんが沢一帯に、にんにくが野生してるので蒜沢となづけられるようになったということです。

「ななえの歴史と伝説」より

七飯町歴史館 ななえの伝説
http://www2.town.nanae.hokkaido.jp/rekisikan/menu_4/densetsu/ougonnokame.html
 

 投稿者:N  投稿日:2014年 5月29日(木)02時58分54秒
返信・引用
  ちょっと気になる山  

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